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カフェ・食べ物

古い鍵と、夕暮れのスープ

開かない鍵が、夕暮れの味を連れてくる。

あらすじ

町を撮り続ける奏は、亡き祖母から託された真鍮の古い鍵を見つめながら、台所で野菜のスープを作り始める。夕暮れの路面電車、湯気、醤油の隠し味。祖母の記憶に触れながら、奏は失われた場所ではなく、これから自分が誰かへ手渡せる温かさに気づいていく。

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第1章

第一章

踏切の警報機が鳴り始める、少し前。

奏は気づく。光が変わる瞬間がある。夕方の五時すぎ、太陽が路地の奥まで差し込んできて、電柱の影が長く伸びる。その数秒だけ、町全体が金色に染まる。

藤村奏は古いカメラを構えて、踏切の手前に立っていた。

カン、カン、カン。

遮断機が降りてくる。線路の向こうから、路面電車がゆっくりと近づいてくる音がした。レールが微かに唸り、電線がたわむ。

奏はシャッターを押した。

町の写真を撮り始めて、もう四年になる。最初は何となく始めたことだった。仕事の合間に、休日に、雨の日も晴れの日も。気がついたら、この町のあらゆる角度を撮り続けていた。

路面電車が通り過ぎると、踏切が開く。人々がまた歩き出す。

奏は液晶画面で今撮った写真を確認した。電車の側面に夕陽が反射して、まるでオレンジ色の水が流れているようだった。

悪くない、と思った。

アパートに戻る途中、スーパーに寄った。野菜売り場の前で少し迷って、玉ねぎとにんじんと、白菜を一玉買った。

理由は、はっきりとはわからなかった。

ただ今夜は、温かいスープが飲みたかった。

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第2章

第二章

部屋に帰ってジャケットを脱いだとき、テーブルの上に置いたままにしていた小箱が目に入った。

先月、祖母が亡くなった。

整理を頼まれた叔母から、この小箱を渡された。「奏に渡してほしいって言ってたよ」と、それだけ聞いた。

蓋を開けると、古い鍵が一本入っていた。

真鍮製で、先端が少し黒ずんでいる。どこかのドアを開けるための鍵だろう。でも、奏には心当たりがなかった。

ひっくり返すと、裏側に赤いマニキュアで小さく文字が書いてあった。

「台所」

祖母の家は、去年取り壊された。

晩年、施設に移っていた祖母が残した空き家は、売ることになった。だからこの鍵が、今どこを開けるためのものなのか、奏にはわからなかった。

奏はしばらく鍵を手のひらに乗せていた。

ずしり、と重かった。

台所に立って、野菜を洗い始める。

水道水が手に当たって、奏はふと思い出した。祖母の家の台所には、冬になると水が冷たすぎるから、お湯を少し混ぜて使っていた。蛇口が二つあって、左が水、右がお湯。子どもの頃、よく混乱した。

玉ねぎを半分に切る。

断面から水分があふれてくる。

切り始めて数秒で、目が痛くなった。奏は少し顔を背けて、続けた。

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第3章

第三章

鍋にオリーブオイルを引いて、玉ねぎを炒める。

弱火でゆっくり、じっくりと。

透明になってきたら、にんじんを加える。角切りにしたにんじんが、油の中でじわじわと色を変えていく。

祖母のスープには、決まって隠し味があった。

何を入れているのか、子どもの頃から何度か聞いた。そのたびに祖母は笑って、「秘密」と言った。

大人になってから一度だけ、台所に立っている祖母の隣に並んだことがある。その日、祖母はスープに醤油を少しだけ垂らした。

「これだけ教えてあげる」

本当に、ほんの少しだった。でも、それが全体をまろやかに引き締めていた。

奏は醤油を手に取って、鍋の端からゆっくりと垂らした。

ジュ、という音がした。

白菜を加えて、水を注ぐ。火を少し強くして、沸騰するのを待つ。

窓の外を、路面電車が通り過ぎた。

ガタン、ガタン。

この部屋に越してきたとき、最初は電車の音が気になった。でも今は、むしろ安心する。定刻通りに来て、定刻通りに行く。この町の呼吸のようなものだ、と思うようになった。

スープが沸騰してきた。

白い泡が立ち上がり、白菜がくたくたと柔らかくなっていく。奏は火を弱めて、蓋をずらして置いた。

台所に湯気が満ちた。

湯気の立つ野菜スープの鍋と、そばに置かれた古い真鍮の鍵

目を閉じると、祖母の家の台所が浮かんだ。

小さな窓から夕陽が差し込んで、鍋の中でスープが静かに煮えていた。祖母は背中を向けたまま、何も言わなかった。奏は椅子に座って、その背中をただ眺めていた。

あのとき、自分は何歳だったろう。

小学校の低学年か、もっと小さかったか。よく覚えていない。でも、台所の匂いだけは、はっきりと覚えている。

タイマーをかけ忘れていた。

奏は蓋を開けて、スープをすくってみた。白菜が十分に柔らかくなっている。塩を少し足して、もう一度味を確かめた。

悪くない。

でも、あの味とは少し違う。

それでいいと思った。祖母のスープは祖母のものだ。自分のスープは、自分で作るしかない。

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第4章

第四章

スープをマグカップに注いで、奏はコートを羽織った。

日が暮れていくのが早かった。六時を過ぎると、もう空は深い藍色になっている。

踏切のそばに戻った。

今度は電車が来るまで、じっと待った。

カン、カン、カン。

警報機の音が鳴り出した。奏はカメラを構える。今度は光の加減が違う。夕陽ではなく、街灯が線路を照らし始めている。昼間とは違う、しずかな輝き方だ。

電車が近づいてくる。

奏はシャッターを押し続けた。

通り過ぎる一瞬に、車窓の光が滲んだ。車内に座っている人の顔が、ぼんやりと見えた。本を読んでいる人。窓の外を見ている人。目を閉じている人。

みんな、それぞれの帰り道の途中にいる。

遮断機が上がって、踏切が開いた。奏は一歩踏み出して、線路を越えた。

振り返ると、アパートのあるほうの街灯がぽつぽつと灯っていた。

写真を何枚か撮って、奏は帰り道を歩いた。

コートのポケットに、あの古い鍵を入れていた。

特に意味はない。ただ、捨てる気にはなれなかった。開けるドアのない鍵でも、持っているだけでいい。そういうものが、たまにある。

部屋に戻ると、台所にまだ湯気が残っていた。

鍋の中のスープは、すこし煮詰まっていた。

奏はコンロに火をつけて、水を少し足した。かき混ぜながら、また火を弱める。

今夜は自分のためだけに作った。

でも次は、誰かのために作ってみようかと思った。

具体的に誰かが浮かんだわけではない。ただ、そういう気持ちになった。それで十分だと思った。

窓の外で、また踏切の音が鳴り始めた。

カン、カン、カン。

奏はスープをもう一杯、マグカップに注いだ。

After Reading

読後の余韻に、次の一編を。

ほんすこ編集部レビュー

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