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カフェ・食べ物

真鍮の春

片方だけの手袋が、春の光を連れてくる。

あらすじ

父の遺した楽器店を片付けていた琴葉は、古いジャケットのポケットから真鍮の鍵と片方だけの青い手袋を見つける。閉店間近の和菓子屋「月見堂」を訪れた琴葉は、練り切りの甘さに父との記憶をよみがえらせる。蓮子さんの言葉をきっかけに、父が残していたもう一つの贈り物へとたどり着く、静かな再生の物語。

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第1章

第一章

父の遺した楽器店は、思ったより狭かった。

子どものころはあんなに広く見えた空間が、段ボール箱と楽譜と、名前も知らない金具の山に埋め尽くされると、ひどく窮屈に感じられた。

琴葉は手袋を脱いでポケットに入れ、壁際のコートラックに残されていた父の古いジャケットを手に取った。裏地が剥がれかけていた。肩のところに小さな染みがあった。なぜかそれを確認してから、ポケットに手を入れた。

指先に、金属の感触。

引き出してみると、真鍮の鍵だった。小さく、古びていて、刻印のようなものが入っていたが、読み取れないほど擦れていた。いったい何の鍵なのか、見当もつかなかった。

同じポケットに、もう一つ。

毛糸のかたまりが出てきた。広げると、手袋だった。左手用の、暗い青。目の詰まった手編みで、母が好きだった色だと、琴葉はすぐにわかった。

右手用は、どこにもなかった。

片方だけの手袋を手のひらで包んで、しばらく立っていた。窓の外、二月の光が、ガラス越しにさびしく差し込んでいた。

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やわらかい場所へ行きたかった。

琴葉は鍵と手袋をポケットに入れたまま、楽器店の戸締まりをして、ゆっくり坂を下った。三軒先の和菓子屋「月見堂」が来週で閉まると聞いたのは、昨日のことだ。四十年以上、この坂の途中にあり続けた店が、消える。父の店と、ほぼ同じ長さだった。

暖簾をくぐると、温かい空気と、煮た小豆のにおいがした。

第2章

第二章

「琴葉ちゃん」

奥から出てきたのは、蓮子さんだった。白髪を後ろで結んで、前掛けをしている。七十を過ぎているはずなのに、声だけはずっと変わらない。

「来てくれると思ってたよ」

彼女は何も聞かずに奥の席へ案内してくれた。

木のカウンター。陶器の急須。蓋のついた湯飲みが運ばれてきた。手のひらに包むと、じわじわと熱が伝わってきた。

しばらくして、上生菓子が一つ、小さな皿にのって出てきた。淡い紅梅の形を模した練り切りだった。

「最後の在庫で作ったの。せっかくだから食べていって」

琴葉は頭を下げて、一口食べた。上品な甘さが、口の中でゆっくり溶けた。

和菓子屋のカウンターに置かれた紅梅の練り切りと湯飲み、そばに青い手袋が少し見えている

そのとき、記憶の端が、ふっと揺れた。

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子どものころ、父と二人でこの店へよく来た。

父はいつも白あんの干菓子を頼んで、琴葉は抹茶ゼリーを食べた。父は喋るのがあまり得意でない人だったので、二人は並んで座り、お菓子を食べながら、外を行く人を眺めた。それだけの時間だった。

それだけの時間が、どうしてこんなに懐かしいのだろうと、今になって思う。

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母が死んだのは、琴葉が中学に上がる直前だった。

母は手仕事が好きな人で、冬になると毎年、誰かのために何かを編んだ。マフラー、帽子、手袋。贈る相手が決まっていることもあったし、ただ手を動かしたいだけのこともあった。

青い手袋は、誰のために編んでいたのだろう。

琴葉はポケットの中で、そっと毛糸に触れた。

第3章

第三章

「ちょっと聞いていいですか」

蓮子さんがお茶を注ぎ直しに来たとき、琴葉はカウンターに真鍮の鍵を置いた。

「お父さんの荷物の中から出てきたんですけど、何の鍵かわかりますか」

蓮子さんは眼鏡をかけ直して、しばらく眺めた。それから「ああ」と小さく言った。

「楽器店の二階の物置の鍵じゃないかしら。むかし、お父さんがうちの道具を少し置かせてくれてたの。もう何年も前のことだけど」

彼女はそこで少し考えた。

「生前に、何かをしまってたって言ってたから。上に、あなたへのものがあるかもしれない」

琴葉は鍵を握り直した。

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「最近ね、息子がタブレットを持ってきてくれたの」

蓮子さんがお茶を一口飲んでから、ぽつりと言った。

「電子書籍が読めるやつ。読了率っていうのが出るんですって。どこまで読んだか、数字でわかるように」

「……知ってます。仕事で扱うので」

琴葉はデジタルコンテンツの編集をしている。配信された作品が何パーセント読まれたか、どこで読者が離れたか、そういうデータを毎日眺めている。

「便利なものね。でも私は結局、途中で止まっちゃう」蓮子さんは苦笑した。「紙じゃないと、最後まで読めないのよ」

琴葉は何も言えなかった。

自分も、ここ数か月、何かを最後まで読んだ記憶がなかった。父が死んでから、文章が頭に入ってこなくなっていた。

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「お父さん、よくここで本を読んでたよ」

蓮子さんが静かに言った。

「仕事が終わったあと、一人で来て、お茶一杯で二時間くらい。集中してたから、声をかけないようにしてたの」

琴葉は、父が読書をしているところを、一度も見たことがなかった気がした。楽器の話はした。音楽の話も少しした。でも本の話は、ついぞしたことがなかった。

「どんな本を読んでたか、わかりますか」

「わからないけど」と蓮子さんは言い、奥の棚を指した。「そこにあるのがそれじゃないかしら」

第4章

第四章

棚の隅に、文庫本が一冊、立てかけられていた。

背表紙は日焼けして色が飛んでいた。蓮子さんが取って渡してくれた。「片付けるとき、どうしようか迷ってたんだけど、琴葉ちゃんが来てよかった」

表紙を開くと、短編集だった。タイトルはかすれていてよく読めなかったが、著者の名前は見えた。琴葉の知らない名前だった。

「もう一つ、あった」

蓮子さんが今度は引き出しを開け、取り出したのは、手袋だった。

右手用の、暗い青。

「去年の春、お父さんがふらっと持ってきたの。あなたに渡してほしいって。でもずっと来なくて、引き出しにしまったままだったのよ」

琴葉はポケットから左手用を取り出した。

右と左、カウンターの上にそっと並べた。

手のひらの上で、二つはぴったり重なった。

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涙が出ると思ったけれど、出なかった。

代わりに、胸のどこかがゆっくりとあたたかくなった。ちょうど練り切りが口の中で溶けたときのように、じわじわと。

父はこれを、いつか自分に渡すつもりだったのだ。でもどうしても、言い出せなかったのだろう。「母さんが編んでいたものが見つかった」と、そう言えばよかっただけなのに。

父もそういう人だった。大切なことほど、言葉にするのが遅かった。

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帰り際、琴葉は文庫本を鞄に入れた。

月見堂の暖簾を出ると、二月の空気は冷たかったけれど、光だけは春に向かっていた。

楽器店へ戻り、階段を上がって、真鍮の鍵で物置の錠を外した。埃っぽい空間には何も残っていなかった。ただ窓から光が入って、床の板の節目が浮かんでいた。

下りてから、琴葉は店の奥にある椅子に座った。

両手に手袋をはめた。少し大きかったけれど、温かかった。

鞄から文庫本を取り出して、表紙を開いた。

最初の一文を、声に出さずに読んだ。

窓の向こうで、風が鳴った。まるで古いギターの弦を弾いたような、細い音だった。

After Reading

読後の余韻に、次の一編を。

ほんすこ編集部レビュー

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