コインの向こう側
水瀬さくらが「何かおかしい」と最初に思ったのは、結婚してまだ間もない頃のことだった。
もっとも、それは確信というほどのものではなく、薄い霧のようなものが心の隅に漂い始めた——そういう種類の感覚だった。霧は晴れることなく、かといって濃くなることもなく、ただそこにあった。さくらはいつしかそれを「気にしないこと」にしていた。気にしないことを、習慣にしていた。
七月の朝、さくらはキッチンでコーヒーを淹れながら、リビングに通じる廊下を眺めていた。夫の航が、いつものように白いワイシャツの袖口のボタンを留めながら玄関へと歩いてくる。灰色のスラックスに、紺のネクタイ。足音はほとんどしない。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
短い言葉の交換。それで十分だった。航はスーツの上着を羽織り、革靴を履き、黒いビジネスバッグを手に取った。その動作は淀みなく、無駄がなかった。長年かけて染み込んだ「出勤の所作」というものが、こういうものなのだろうと思っていた。
ドアが閉まる。静かな音だった。
さくらはコーヒーカップを両手で包みながら、窓の外を見た。梅雨明けの空は白く霞んでいて、もうすぐ本格的な夏になろうとしていた。蝉の声がまだ遠い。
「真面目な人だよね」——そう、結婚前に母に話したことを、さくらは思い出した。実際、水瀬航という男は、誰が見ても「真面目なサラリーマン」の見本のような人間だった。朝は必ず七時三十分に家を出る。帰宅はだいたい二十時前後。週に一度か二度は残業で遅くなるが、それもごく自然なリズムに見えた。
さくらは出版社に勤める編集者だった。担当は女性向けライフスタイル誌で、取材から入稿まで手広く動き回る毎日だった。自分もまた、残業や休日出勤が珍しくない仕事をしているから、夫の帰りが不規則であることをあまり深く気にする余裕がなかった。それが正直なところだった。
二人が結婚したのは二年前の秋だった。
出会いはマッチングアプリ。プロフィールに「会社員」と書いてあって、三回目のデートで航は「IT系の会社に勤めています」と言った。それ以上詳しく聞いたことはなかった。航は自分のことをあまり話さない人で、さくらも仕事の話を根掘り葉掘り聞くのは野暮だと思っていた。そのまま付き合い、そのまま結婚した。
今思えば、あのときが分岐点だったのかもしれない。
「航さんの会社、何ていうんだっけ」
結婚して半年が経った頃、ふと思い立って聞いたことがある。そのとき航は少し間を置いてから「小さい会社だから、聞いてもわからないと思う」と答えた。
「そうなの? どんな仕事してるの?」
「データの管理とか、分析とか」
「へえ。忙しいの?」
「まあまあ」
それで会話は終わった。さくらも仕事から帰ってきて疲れていたから、それ以上追わなかった。夫は「そういう人」なのだと、どこかで決めてしまっていた。口数が少なくて、自分のことをあまり話さない人。でも家事はよく手伝ってくれるし、誕生日も覚えていてくれるし、優しかった。それで十分だと思っていた。
——でも今、改めて考えると。
航は一度も、自分の職場の名前を口にしたことがない。
さくらはコーヒーを飲み干して、空になったカップを流しに置いた。今日も仕事に行かなければならない。来週の特集記事の入稿が頭を占領していた。夫の話は、また今度でいい。
そう思って、毎朝の霧は晴れることなく、薄いまま積み重なっていった。
水瀬さくらは、几帳面な性格だった。
手帳は紙のものを使い、仕事の予定も家計の収支も、すべてペンで書き込む主義だった。食費、光熱費、通信費——結婚を機に始めた家計簿は二冊目に入り、今では月の収支を一円単位で把握していた。
だから、気づいてしまったのだと思う。
夫の収入が「会社員らしくない」ことに。
毎月決まった日に給与が振り込まれるわけではない。入金の金額も、月によってばらつきがある。多い月は三十万を超えるが、少ない月は十五万程度にとどまることもある。ボーナスと思しき大きな入金が突然入ってくることもあれば、やや長めの間が開くこともある。
「変動報酬制の会社なんだよ。業績によって給与が変わるから」
そう言われたとき、さくらはそういうものかと思った。IT系のスタートアップなら、そういった給与体系もあるのだろうと。自分も出版社という業界にいるから、業績連動型の給与は珍しいものではない、と納得していた。
でも——変動報酬で、毎月これだけ差があるものだろうか。
(まあ、私が心配することでもない。生活には困っていないし)
そう自分に言い聞かせて、また家計簿を閉じる。そういうことを繰り返していた、結婚二年目のさくらだった。
七月の土曜日、さくらは午前中から仕事が入っていた。
取材の準備資料を作らなければならなくて、自宅でパソコンを開いていた。航は「ちょっと出てくる」と言って、いつものようにスーツを着て出かけた。
「土曜日もスーツ?」
「うん、まあ」
さくらはパソコンの画面から目を上げて夫の背中を見た。航はごく自然な動作で革靴を履いていた。
「仕事?」
「そんなとこ」
「お昼は?」
「外で食べる」
「そう。気をつけてね」
ドアが閉まった。さくらはしばらくパソコンの画面を見つめてから、小さくため息をついた。土曜日にもスーツで出かけるのは、これで三回目だった。
——まあ、仕事熱心な人なんだろう。
そう思って、資料作成に戻った。
お昼を少し過ぎたころ、さくらはコーヒーを入れるためにキッチンへ立った。ちらりとリビングを見ると、航がいつも使っているビジネスバッグが、ソファの脇に置いてある。
(あれ、バッグ忘れていったの?)
仕事に行くのにバッグなしで出かけた——? スマホと財布だけ持っていったのだろうか。
余計なことを考えないようにしながらコーヒーメーカーのスイッチを押して、バッグのほうへ何となく近づいた。別に開けるつもりはなかった。本当に、ただ少し気になっただけだった。
バッグのファスナーが、少し開いていた。中がちらりと見えた。
黒いノートの背表紙。
さくらは足を止めた。
何気なく視線を走らせると、そのノートには表紙に小さく「収支」と書いてあるのが見えた。
(収支ノート……?)
ぎゅっと胸の中で何かが締まった気がした。さくらは自分が几帳面な人間だということを知っている。家計簿をつけていることも、数字に敏感なことも。だから、その二文字が目に入った瞬間、頭の中で何かがカチリと音を立てた。
——触れてはいけない気がした。でも——
コーヒーメーカーがピーッと鳴って、さくらは我に返った。バッグから離れ、コーヒーをカップに注いだ。手が少し震えていた。
それだけのことだった。ノートに触れてもいない。中を見てもいない。なのに、なぜこんなに心臓が早く打っているのだろう。
さくらはコーヒーを飲みながら、資料の文字を追った。でも文字が頭に入ってこなかった。
——あの「収支」は、一体何の収支なのだろう。
夜、航が帰ってきたのは二十時を少し過ぎたころだった。「お疲れ」とさくらが声をかけると「うん」と短く返事をして、洗面所に向かった。バッグを持って出かけていないのに、何か小さい袋だけ提げて帰ってきた。さくらは台所でシチューを温めながら、さりげなく聞いた。
「今日、バッグ忘れていったね」
「あ——うん。大丈夫だった」
「仕事なのに、バッグなしで行くんだね」と言いかけて、さくらはやめた。代わりに「シチュー、できてるよ」と言った。
夕食の間、二人は他愛もない話をした。さくらの職場の話、来週の予定、近所のスーパーに新しい惣菜コーナーができた話。航は穏やかに相槌を打ちながら、シチューを食べた。
デザートのプリンを食べながら、航がふとさくらの顔を見て言った。
「何か気になることある?」
さくらは一瞬、答えに詰まった。
「……ないよ、別に」
「そう」
航はそれ以上何も言わなかった。さくらも言わなかった。
その夜、布団の中で、さくらはずっと眠れなかった。天井を見つめながら、「収支」という二文字が、繰り返し頭の中に浮かんでは消えた。
知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが、ちょうど半分ずつあった。


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