誤植のない世界で生きている
四月の終わりは、いつも紙の匂いがした。
芹澤梓の机の上には、常に三種類のものが並んでいる。赤ペン、付箋、そして締め切りまでの残り時間を刻む腕時計。どれひとつとして余分なものはなく、どれひとつとして欠けてはならない。それが梓の仕事場であり、梓の宇宙だった。
「芹澤さん、黒木先生からまた連絡が」
後輩の田所陽菜が、申し訳なさそうに顔を突き出した。デスクに向かったまま梓は赤ペンを走らせ続ける。校正刷りの余白に、細かく整った文字が並んでいく。
「何て」
「あと一週間ください、って」
「先週も一週間いただきましたって伝えて」
「はい……でも先生、体調が」
「陽菜」
梓はようやく顔を上げた。後輩の丸い目と目が合う。
「体調が悪いのは原稿が遅れる理由にならない。作家は書くことが仕事で、私たちは締め切りを守ることが仕事。黒木先生にそう伝えて。それから、三日後に私が直接電話する、とも」
陽菜は小さく「わかりました」と呟き、自分のデスクへ戻っていった。その背中を見送りながら梓は視線をゲラに戻す。赤ペンが走る。走る。走る。
蒼文社の文芸編集部は、出版社の中でも特に静かなフロアだった。営業部の喧騒や雑誌部の慌ただしさとは切り離されたように、ここでは人々がそれぞれの原稿と向き合い、各自の沈黙を守っている。梓はその空気が好きだった。言葉が仕事であるくせに、言葉を交わすことが最小限で済む場所。
午後六時、梓はようやく赤ペンを置いた。
今日の校正作業は終わった。明日の朝一番で版下に戻せる。スケジュール通りだ。何もかもスケジュール通りだ。梓は小さく息を吐き、コートを手に取った。
地下鉄に乗り、乗り換えて、また乗る。梓の通勤は三十四分。乗り換え含めて。いつも同じ。誤差は出さない。電車の中でスマートフォンを取り出し、メッセージを確認する。悠からの着信が一件。
「今日、何時ごろ帰る? 夕飯作るよ」
送信時刻は午後三時だった。梓は今それを見ている。夕飯の時刻はとうに過ぎていた。
「ごめん、遅くなる。先に食べてて」
返信を打ちながら、梓はぼんやりと自分の文章を読み返す。謝罪で始まり、命令で終わる。それが最近の自分の返信のパターンだということに、梓はうっすら気づいていた。気づいていたが、直し方がわからなかった。
帰宅すると、悠はリビングのソファでスケッチブックを広げていた。仕事の続きか、あるいは趣味の落書きか。グラフィックデザイナーという職業柄、彼の手はいつもペンを持っている。梓のそれが赤ペンなら、悠のそれは黒いサインペン。二人の手元だけが似ている、と梓はどこかで思っていた。
「おかえり」
悠が顔を上げた。顔は穏やかで、責めている色はない。それが梓には、時々つかみどころがなく感じられた。
「ただいま。ごめん、連絡遅くて」
「全然。ラップしてあるから、温めて食べて」
キッチンに行くと、皿にラップをかけた夕飯があった。チキンのソテーと温野菜。梓の好物だ。悠はそういう細かいことを覚えている。いつも。梓が疲れていそうな日には消化のいいものを、梓が張り詰めていそうな日には少し手の込んだものを。
電子レンジが鳴る。梓は皿を取り出しながら、何か言わなければと思う。「おいしそう」でも「ありがとう」でもよかった。けれどダイニングに持っていって食べ始めると、言葉はどこかへ行ってしまっていた。
「黒木さんの原稿、また遅れそうだよ」
梓は食べながら言った。悠はソファから「そうなんだ」と答える。
「あの人、もう何度目かな。毎回毎回、こっちの進行が全部狂う」
「大変だね」
「大変っていうか、信頼の問題だと思う。プロとして」
「うん」
会話が続かない。続けようとするたびに、梓は話題を仕事に持っていってしまう。それ以外の話し方を、最近うまくできていない気がした。
「悠は今日どうだった」
「まあ、普通かな。ロゴのリテイクが二件あって」
「ふーん」
今度は梓が短く答える番だった。
二人は同じ空間にいて、それぞれ別の沈黙の中にいる。リビングの時計が九時を告げた。梓は食器を洗い、明日のゲラの段取りを頭の中で組み直し、歯を磨いて、先に寝室に入った。
布団の中で、梓は今日一日のことを反芻する。赤ペン。陽菜の困り顔。遅れてくる原稿。悠の「大変だね」。
全部、過不足なく収まっている気がした。完璧ではないが、管理できている。それで十分だと思っていた。
けれど眠りに落ちる直前、梓はふと思った。
悠が「おかえり」と言った時、自分はちゃんと顔を見ただろうか。
答えが出ないまま、意識が沈んでいった。
翌朝、黒木忍から原稿が届いた。
締め切りの三日前。梓が「三日後に電話する」と言った翌朝に、届いた。これが黒木のやり方だった。圧をかけると動く。動けば書ける。わかっているのにこちらが疲弊するのは、毎回この綱引きに消耗するからだ。
梓はメールを開き、添付ファイルをダウンロードした。長編小説の第三稿、二百四十ページ。黒木忍の新作。タイトルは『余白の声』。
印刷して、ゲラを作る。梓は赤ペンを持ち直した。
黒木の文章は、いつも梓を苛立たせる。誤字が多い。文末の表現が統一されていない。句読点の使い方がまるで一貫性を持たない。けれど不思議なことに、それらの粗さを全部取り除いても、何か残るものがある。芯のようなもの。削れない何か。梓は編集者として、その芯を守りながら文章を整えることに、静かな誇りを持っていた。
赤ペンが走る。最初のページ、二ページ、三ページ。
そして四ページ目で、梓の手が止まった。
おかしな一文があった。
「ねえ、今日は早く帰れる?」
本文の流れとは全く関係のない、唐突な一文。登場人物のセリフでもなく、地の文にも合わない。梓は首を傾げ、赤ペンで丸をつけた。削除、と書く。
先を読み進める。二十ページ。五十ページ。黒木の文章は今回も粗いが、芯は確かにある。梓は黙々と赤を入れ続けた。
八十ページ目に差し掛かったとき、また止まった。
「最近、全然話せてない気がする」
また、本文と無関係な一文。梓は眉をひそめた。黒木の癖か。あるいは原稿の管理ミスで、別ファイルの文章が混入したか。とにかく削除だ。赤ペンで消す。
そのまま読み進め、百二十ページに来た時、梓はゆっくりと赤ペンを置いた。
「ちゃんと俺のこと、見てる?」
三度目だった。本文とは無関係な、誰かのセリフのような一文。
梓はゲラを持ったまま、しばらく動けなかった。
その言葉には、聞き覚えがあった。いや、正確には、聞いた記憶がないのに、聞こえてきそうな声がある。穏やかで、低くて、少し掠れた声。
悠の声に、似ていた。
梓はゆっくり首を振り、赤ペンを取り直した。削除。削除。削除。
それだけのことだ。原稿の中の異物は、取り除けばいい。赤ペンがあれば、何でも直せる。
梓はそう思うことにして、仕事を続けた。
その週末、悠が珍しく早口で話しかけてきた。
「来月、友達の個展があってさ。一緒に行かない?」
梓はノートパソコンの画面から目を離さず、「いつ?」と聞いた。
「十四日の土曜」
「ちょっと待って」と言いながら、スケジュールを確認する。蒼文社の校了日が十三日。十四日は修正対応で潰れる可能性が高い。
「たぶん無理かも。校了が十三日で、翌日は念のため空けておきたい」
悠はそうか、と言った。
「ごめんね」
「ううん、しょうがないよ」
しょうがない。この言葉を最近、悠がよく使うようになった気がした。梓はその言葉の質感が、少し変わってきていることに気づいていた。最初のころのそれは受け入れと優しさだったのに、今はどこか諦めに近い響きがある。
でも梓には、どうしようもなかった。仕事は動かせない。締め切りは動かせない。本は待ってくれない。
完璧に仕事をこなすためには、余分なものを削ぎ落とす必要があった。梓はずっとそうやってきた。余分なものを削いで、削いで、削いで——。
今、何が残っているのかは、あまり考えないようにしていた。


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