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人情・日常

土の味

失った味覚を、土と雨がほどいていく。

あらすじ

料理人として十二年を過ごした麻衣は、ある日突然「おいしい」が分からなくなり、東京を離れて香川の山あいの集落へ移住する。台所に立てないまま眠る日々の中、隣人のひさ、はるこ、とよと畑で過ごし、土に触れ、不格好な野菜を食べるうちに、麻衣の中の小さな感覚が戻り始める。評価ではなく、自分の体が感じる「おいしい」を取り戻す再生の物語。

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第1章

土の匂い

四月の終わりのことだった。

松本麻衣がその集落に着いたのは、曜日の感覚がとうにどうでもよくなった頃で、手帳を見れば火曜日とある。重いボストンバッグをふたつ、ひとつは右手に提げ、もうひとつは肩に担いで、軽トラの荷台から降りた。

「ここじゃ」

軽トラを運転してきた橋本圭吾が、小さな集落の一角を指さした。

石垣の向こうに、古い木造の農家が見えた。屋根は黒く重く、壁板は雨と年月に塗り込められてほとんど黒ずんでいる。玄関の引き戸の前に大きな鉢植えが置かれていて、そこだけが妙に明るかった。スイートアリッサムの白い花が、風もないのに少し揺れていた。

「隣のひさばあちゃんが植えてくれたんですよ。松本さんが来るって聞いて、急に張り切り始めて」

圭吾は言いながら荷物を持とうとした。麻衣は首を振った。自分で運ぶ。バッグを持つくらいのことはできる。できないのはほかのことで。

集落の名前は奥東(おくひがし)といった。香川県の山あい、最寄りのコンビニまで車で三十分、最寄りのスーパーまで四十五分かかる場所で、世帯数は今年で十七になった。麻衣が移住希望の電話を入れたとき、窓口の担当者は「一度実際に見てから決めてください」と言った。麻衣はそのまま決めた。見に来なかった。どこでもよかったのだ、東京じゃなければ。

古民家の鍵を受け取り、引き戸を開けると、古い家の匂いがした。木と土と、誰かが長い時間をかけて染み込ませた生活の匂い。麻衣は玄関に立ったまま、そのにおいをしばらく嗅いでいた。子どもの頃、祖父母の家へ行くたびに嗅いでいた匂いに似ていた。小学生の夏休み。岡山の祖父母の家。畳の部屋と縁側と、台所からかつお節の出汁が漂ってきていたあの感じ。

廊下を抜けると広い土間がある。その奥に台所があった。

台所の前で、麻衣の足が止まった。

扉は開いていた。古い四口のガスコンロが見えた。深い石のシンク。木の棚に並んだ誰かの残していった鍋蓋たち。それだけなのに、麻衣の体は石になったようだった。手の先が、かすかに震えた。

「松本さん?」

「……後で、見ます」

圭吾は少し間を置いてから「そうですね」と言った。それ以上は聞かなかった。

麻衣が奥東に来た理由を、圭吾は知っていた。移住の相談電話をかけたとき、麻衣は説明した。できるだけ端的に、できるだけ感情を交えないように。「厨房で仕事ができなくなりました。料理から離れたいと思っています。静かなところに行きたいのですが」。圭吾は「わかりました」とだけ言った。それ以上を掘り下げなかった。麻衣はその電話を切ったとき、少しだけ泣いた。理由は今もわからないが、泣いた。

居間に荷物を置いた。圭吾が近くのスーパーの場所と、ゴミの出し方を説明してくれた。集落の決まりごとを書いた紙を渡してくれた。「困ったことがあれば何でも連絡してください」と言って名刺を置いて帰っていった。

一人になった。

窓から見える景色は、田んぼと山だった。田んぼはちょうど水が張られた頃で、夕方の光が水面に橙色に反射している。山は萌黄色だった。あんなにも山が緑なのに、東京に住んだ十二年間、麻衣はほとんど山を見たことがなかった。いつも下を向いていた。調理台のステンレス、皿の白、包丁の刃先、スプーンの曲面に映る自分の歪んだ顔。

麻衣は居間の床に座り、持ってきたコンビニのおにぎりを食べた。鮭と昆布。だいぶ遅れた昼食だった。咀嚼しながら、何も考えないようにした。

考えると、あの夜のことが出てきてしまうから。

東京・広尾のフランス料理店「レクレール」。ミシュランの一つ星。麻衣が二十二歳で入り、十二年間を費やした場所。スー・シェフという肩書きは、もちろん最初からついていたわけではない。一番下から始めて、何度も怒鳴られ、何度も泣いて、それでも続けた。続けたのは、料理が好きだったからだ。

好きだったのだ、と麻衣は今、過去形で思う。

三月初旬の水曜日。ディナーサービスの二時間前。麻衣はソースの最終確認をしていた。エスカルゴのバターソース、トリュフ風味のビスク、仔牛のジュ・ド・ヴォー。それぞれをスプーンで掬っては口に運んで確認し、若いコックたちに指示を出しながら、仕込みのチェックを並行してこなしていた。いつもと変わらない光景だった。

ではなぜあんなことが起きたのか、麻衣にも今もってよくわからない。

ビスクのスプーンを口に運んだとき、何かがぷつりと切れた。

味がわからなかった。いや、わからないというより——どうでもよくなったのだ。「おいしい」か「おいしくない」かという判断が、どこか遠いところへ行ってしまった感覚。どんな味がしても「これでいい」「これで構わない」という、恐ろしい凪。十二年間、毎日毎日、その感覚で仕事をしてきた自分が、ある瞬間にぷつりと消えた。

麻衣はスプーンを鍋の縁に置き、静かに厨房を出た。スタッフトイレに入り、床に座った。出ることができなかった。サービスが始まっても出られなかった。シェフが怒鳴り込んできた。「何をやってる、松本。出てこい」。麻衣は出られなかった。

その年の冬から、シェフとのやりとりが続いていた。次のシーズンのメニュー刷新に向け、試作を繰り返していた。「松本のアイデアは頭でっかちだ」とシェフに言われた。「お前の料理には感情がない」と言われた。麻衣は「もう一度やります」と言って、翌日また試作を持っていった。「違う」。また持っていった。「違う」。それが何週間も続いた。

でも、そのことと直接関係があるかどうかも、麻衣にはわからない。もしかしたらただ疲れていただけかもしれない。もしかしたらもっと深いところで、ずっと前から何かが限界を迎えていたのかもしれない。

翌日、退職届を出した。シェフは引き止めなかった。

引き止めなかったことに麻衣は傷ついたが、もう関係なかった。

奥東の夜は、東京とまったく違う暗さをしていた。

街灯がない。星がある。こんなに多くの星が夜空にあることを、麻衣は知らなかった。いや、知っていた、ただ見ていなかっただけで。

その夜、麻衣はコンビニで買ってきたカップの味噌汁を飲んだ。居間のテーブルで、テレビもつけずに。お湯を注いだだけの、粉末出汁と乾燥わかめの汁。

飲めた。

飲めるということが、少し意外だった。あの夜から、食べるたびにどこかで評価しようとする自分が出てきて、でももう評価できないから怖かった。食べ物を前にすると「おいしいかどうかわからない」という恐怖が先に来る。それが怖くて、コンビニのものを選んでいた。プロが自分では食べないような、添加物たっぷりの既製品を。

でもコンビニの味噌汁は、なんとなく飲めた。おいしいかどうかはわからない。でも飲めた。

麻衣はその小さな事実を、心のどこかにそっと置いた。

最初の一週間は、ただ眠って過ごした。

奥東の朝は早い。五時になると周囲が動き出す音がする。畑に行くお年寄りたちの声、鶏の声、遠くで始まるトラクターのエンジン音、カラスの鳴き声。麻衣はその音を布団の中で聞きながら、また眠った。何年分かの疲れが出ているのか、気がつくと午前十時を過ぎていることが珍しくなかった。

起きると顔を洗い、コンビニへ行った。あるいは、コンビニへ行く気力もなく、買い置きのカップ麺やおにぎりを食べた。あるいは何も食べなかった。

圭吾が二日おきくらいに様子を見に来た。短い会話をして帰っていった。困ったことはないか、生活は大丈夫か。麻衣は「大丈夫です」と言い続けた。

台所には入らなかった。

台所の前を通るとき、麻衣はいつも廊下側の壁に向いて通った。見ないようにした。台所のドアはずっと開いていたが、麻衣はその部屋を封じているつもりでいた。包丁はバッグの中にある。料理人の道具として研いで丁寧に革の包丁ロールに巻いた五本のナイフ。なぜ持ってきたのか自分でもわからなかった。でも手放すことができなかった。バッグの底に眠らせたまま、麻衣は台所のドアの前を、毎日壁を向いて通りすぎた。

ところが、移住して八日目の朝、台所のテーブルの上に何かが置かれていた。

茄子が三本。曲がったきゅうりが二本。大きなトマトが四個。そしてその隣に、小さな紙切れ。

『おいさんの畑のや。よかったら食べんかい。山下ひさ』

鉛筆で書かれた、大きくて力強い文字だった。

麻衣はその文字をしばらく見ていた。

「入ってきたのか」と思った。鍵をかけていなかったから、入れたのだ。田舎の古民家の暮らしに、そういう慣習があることを麻衣は知らなかった。しかし不思議と不快ではなかった。むしろ、胸のどこかがじわりと緩む感覚があった。

野菜は、どれも不格好だった。茄子は先端が大きく曲がっている。きゅうりはほとんど直角に折れている。トマトは一個ずつ形が違って、色も大きさもまるでばらばら。スーパーで売っている、規格で揃えられた均一な野菜とは、まるで違う顔をしていた。

麻衣は茄子を一本手に取った。ずっしりと重く、表面が艶やかに紫紺に光っている。台所には入れなかったから、廊下のところで茄子を持ったまま、しばらく立っていた。

この野菜を、昔の自分なら何にするだろう。

焼く。直火でしっかり焼いて、皮が裂けてとろりとなったところに、おろし生姜と醤油をかける。あるいは、縦に切って素揚げにして、だし汁に浸して焼きびたしにする。あるいはフレンチ風に、ハーブとオリーブオイルでラタトゥイユにする。昔は材料を前にすると、そういう思考が自動的に走ったものだった。料理の設計図が、見た瞬間に頭の中に展開された。

でも今はその思考が途中で止まる。台所に入ることを想像しただけで、胸のあたりに何かが詰まる。

麻衣はそっと茄子をテーブルに戻した。

翌日、山下ひさが正面玄関からやってきた。

「こんにちはー! 生きとる?」

引き戸を開ける前から、声が届いた。

山下ひさは、七十八歳とは思えない勢いで靴を脱いで上がり込んできた。短く切った白髪に、紺色のモンペ。腰まで届く大きなエプロンは草の汁で薄く汚れていた。目が細くて、いつも笑っているような顔をしているが、言葉はびっくりするほど率直だった。

「台所、全然使うとらんのね」

ひさは台所を覗いて、そう言った。

「……ええ、まあ」

「コンロのとこ、触った跡もない。なんで? 体の具合が悪いん?」

「少し……体調が優れなくて」

「ふうん」

ひさはしばらく台所を見てから、くるりと麻衣に向き直った。

「野菜、置いといたけど使うたか?」

「……まだです」

「そうか」

ひさは何かを言おうとして、やめた。代わりに「また持ってくるわ」と言った。そして帰り際、当然のように付け足した。

「明後日、畑に来てみんか。何もせんでええ。ただ来るだけでいいよ」

麻衣は反射的に「いえ、私は——」と言いかけた。しかしひさはもう玄関を出ていた。引き戸が音を立てて閉まった。

その夜、もらった野菜が萎びていることに気がついた。

麻衣は台所のテーブルから、そっと野菜を取り出した。四つのトマトのうち一つには亀裂が入り始めていた。きゅうりは張りを失ってへにゃりとしている。茄子はまだ艶があったが、先のほうから皮が縮み始めていた。

不格好な野菜が、ゆっくりと萎びていた。台所のテーブルで、使われないまま。

麻衣はそれをビニール袋に入れ、ゴミ袋の口を結びながら、ひっそりと「ごめんなさい」と言った。誰にも聞こえない声で。誰へ向けた言葉かもわからないまま。

ひさに対してか、野菜に対してか、それとも、かつての自分に対してか。

その夜、麻衣は布団の中で目を開けたまま、明後日の朝のことを考えた。行かなくていい、と思った。行けない、とも思った。でも眠れなかった。窓の外で、誰かの畑の畦の上に月が出ていた。田んぼの水面が白く光っていた。

明け方に、麻衣はようやく決めた。

行ってみよう、と思った。ただ行くだけでいい。ひさがそう言ったのだから。

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第2章

不格好な形

朝六時半に玄関を出ると、空気が違った。

五月に入って最初の週だった。東京にいたときの五月は、地下鉄と空調の中で過ぎていく季節で、季節が変わったことを麻衣が知るのは、出勤途中にコンビニの店頭に柏餅が並んでいるのを見たときくらいだった。でも奥東の五月は、体が知っている。空気が違う。土の匂いが違う。萌え出た青草の匂いが、朝の冷えた空気に溶けている。

ひさの家は石垣を挟んだだけの隣だった。五十メートルも歩かないうちに、ひさが畑の前に立っていた。モンペに長靴を履き、腰に虫除けをぶら下げて、大きな鍬を脇に立てかけている。

「来たんか」

ひさは振り返らずに言った。

「……来ました」

「そうか」

それだけだった。ひさは鍬を手に取り、畑の中に入っていった。麻衣はその後ろに続いた。

畑は、思っていたより広かった。

山を切り開いて作られた段々畑で、下の段に茄子やきゅうり、トマト、ピーマン。上の段に葉物類、じゃがいも、玉ねぎ。その奥にカボチャやズッキーニが蔓を伸ばしている。畑のあちこちに木の支柱が立てられ、緑の蔓が絡まっている。土は黒く、やわらかそうだった。

「ここが茄子。ここがきゅうり。あっちがトマトや」

ひさが順番に指さしていく。

麻衣は黙って付いていきながら、野菜を見ていた。プランターや温室の中でなく、土の上で、風を受けて育っている野菜を、こんなにも近くで見るのは、いつ以来だろうと思った。レクレールに在籍したときも、食材の産地に視察に行ったことはある。でもそれは「食材を調達するための確認作業」だった。今は、ただ見ている。

「そこ、引いてみなさい」

ひさが雑草を指さした。

麻衣はしゃがんで、草の根元を掴んだ。引く。案外しっかりとした根が土を離すまいとして、ぐっと抵抗する。麻衣はもう少し力を入れて引くと、草が土ごと抜けた。根に黒い土が絡まってついてきた。

初めて、土の感触が手のひらに伝わってきた。

冷たくて、しっとりしていて、重い。

「上手やないか」

ひさが言った。

本文挿絵用、横長4:3、文字なし、スマホ読書の途中に入れても邪魔にならない静かな構図。人物を描く場合はこの作品専用の人物デザインにし、他作品の人物と顔立ち・髪型...

その日の畑で、麻衣は田辺はること岡崎とよに会った。

はるこは七十二歳で、ひさの幼馴染だと後から教えてもらった。丸くて穏やかな顔をした人で、肩のあたりまである白髪を後ろでゆるくまとめていた。ひさとは対照的に声が小さく、ゆっくりとした口調で話す。ひさが鍬を振るっているすぐ隣で、はるこは膝をついてトマトの脇芽を摘んでいた。

「あら、新しい人やね」

はるこは麻衣を見て、にっこりした。

「松本麻衣といいます。先月からあの古民家に」

「知っとるよ。東京から来たんやろ。大変やったね、きっと」

大変やったね、という言葉が、あまりにも自然に出てきたので、麻衣は少し呆気にとられた。詳細を聞くでもなく、慰めるでもなく、ただそう言った。麻衣は「ええ、まあ」と言いながら、目元が少し熱くなるのを感じた。

とよは一番奥の段にいた。

八十一歳のとよは、三人の中で一番小さく、一番細い。土色のつなぎを着て、頭に手ぬぐいを巻いている。植物のように静かで、麻衣が挨拶に行っても、軽く頷いただけだった。でも目が笑っていた。細い目の端が、笑うと本当に消えてしまいそうなほど細くなる。

「とよさんは口が少ないけど、畑のことは一番よう知っとる」

ひさが教えてくれた。「あのとよさんが褒めた野菜は、本当においしいから」

「なんで?」

「なんでか知らんが、そういうもんなんよ」

麻衣はとよの後ろ姿を見ながら、その言葉を不思議に思った。

午前中の畑仕事は、思いのほか静かだった。

三人のおばあちゃんたちは、それぞれ自分の持ち場で黙々と働く。ときどきひさが何か言って、はるこが笑い、とよが微かに表情を動かす。それだけだった。

麻衣は雑草を引いたり、きゅうりの蔓を支柱に誘引したりする作業を手伝った。「こうやって巻きつけるんよ」とひさが教えてくれる。きゅうりの蔓は細くて柔らかく、螺旋を描きながら支柱に絡んでいた。その螺旋の一つ一つが、どこか生き物らしく見えた。

途中、麻衣は深くしゃがみこんでトマトの根元の草を抜いていて、ふと顔を上げた。

トマトが、すぐ目の前にあった。

まだ青い実が、いくつも重なるように実っていた。艶があって、ずんぐりとして、いびつな形をしている。均一ではない。一個ずつ、大きさも形も違う。でもそのどれもが、命を持って実っていた。

麻衣はしばらく、そのトマトを見ていた。

料理人として食材を見てきた十二年間、麻衣はいつも「使えるか使えないか」という目で食材を見ていた。この形では使えない。この大きさでは皿に合わない。この色では提供できない。それが当たり前だった。客に最高のものを出す、という使命がある。そのためには選ばなければいけない。

でも今、目の前のいびつなトマトを見ながら、麻衣は「使えるか」という言葉が浮かばなかった。

ただ、きれいだと思った。

昼が近づいた頃、とよが無言で立ち上がり、畑の脇に設えた竈の前に向かった。

小さな竈だった。石と煉瓦で組まれた、腰の高さほどの竈。その前に、とよは昨日のうちから薪を積んでいたらしく、素早く火をつけた。よく乾燥した杉の薄板に火がつくと、ぱちぱちと弾けながら燃え広がっていく。

はるこが畑の脇に置いておいた風呂敷包みを開けると、中に米と鍋、そして朝に収穫した野菜が入っていた。

「今日は何にするん?」

ひさが聞いた。

「茄子と、あとはきゅうり。おみおつけはトマト入れよかと思って」

はるこがのんびりした口調で言いながら、野菜を並べ始めた。

「かわいいね」

はるこは茄子を手に取りながら、そう言った。麻衣は少し驚いた。

「……かわいいんですか、茄子が」

「そうやよ。どれもかわいいやろ。こんな形になるまでに、何日もかかっとるんやもん」

麻衣はその言葉を、なぜかしばらく頭の中で繰り返していた。こんな形になるまでに、何日もかかっとる。

はるこは茄子を縦に割き、大きめに切っていった。まな板は古い木のまな板で、刃物の跡がいくつもついている。包丁はごく普通の菜切り包丁だった。力任せに切るでもなく、でも細心の注意を払うでもなく、ただ自然な速度で、ぱんぱんと小気味よく切っていく。

麻衣はその手元を、気がつくと真剣に見ていた。

竈の上に鉄鍋が据えられ、米が研がれて水と一緒に入れられた。とよが薪の量を調節する。竈の中の炎が揺れる。

「木の火で炊いたご飯は違うんよ」

ひさが麻衣に言った。「ガスもええけど、竈で炊いたのは香りが違う」

「……炭みたいな、香りですか」

「そうそう。でも炭より優しいんよ。杉の匂いが少しするんよね」

一時間ほどして、竈の前に四人で並んで昼飯を食べた。

まず、とよが鍋の蓋を開けた。

湯気が立ち上った。そしてその湯気と一緒に、麻衣の鼻に匂いが届いた。

炊きたての米の香りだった。でも電気炊飯器の米の香りとは少し違う。もっと野性的というか、素朴というか——ほのかに煙の気配があって、でも嫌ではなく、むしろ温かみがある。鍋の底を見ると、薄く焦げ目がついていた。おこげだ。

「おこげ、好きか?」

ひさが麻衣に聞いた。

「……はい、好きです」

「よかった。あんた、初めてそんな顔したわ」

麻衣は自分の顔が変わったことに、言われるまで気がつかなかった。

膳は質素だった。竈炊きの白飯、茄子の味噌炒め、トマトと豆腐の味噌汁、塩もみきゅうりにごまをかけたもの。それだけ。

はるこがよそってくれた茄子の味噌炒めを、麻衣は一口食べた。

とろけた。

文字通りとろけた。外側はしっかり炒めてあって少し焦げ目がついているのに、中は箸で触れるだけでほどけるほどやわらかい。味噌の塩分と甘みが茄子の水分と混ざり合い、茄子自身の甘さがふんわりと後から来る。生姜がほんの少し効いている。

麻衣は箸を止めて、しばらく動けなかった。

「どうした?」

ひさが覗き込んできた。

「……おいしい、です」

自分でその言葉を言ってから、麻衣は少し驚いた。

おいしい、と思ったのだ。あの夜からずっと、おいしいかどうかわからなかった。食べることが怖かった。でも今、はるこが作った茄子の味噌炒めを食べて、麻衣の口は「おいしい」という言葉を出した。体が、先に知っていた。

「そりゃよかった」

ひさはにやりとした。

トマトの味噌汁を飲んだ。トマトを味噌汁に入れるということ自体、麻衣にとって目新しかった。フランス料理の世界にいると、トマトは加熱してソースにするか、そのまま盛り付けるか、そういう使い方が多い。でもはるこのトマトの味噌汁は、トマトの酸味が出汁と味噌に混ざって、不思議とまろやかだった。完熟したトマトが熱でやわらかくなって、噛むと口の中にじゅっと果汁が出た。

白飯を食べた。竈で炊いた米は、一粒一粒に芯があった。粘り気はあるのに、べたつかない。噛むたびに甘みが出てくる。おこげの端っこを食べると、香ばしさが口の中に広がった。

塩もみきゅうりは、ぱりぱりと歯切れよく、ごまの香りがした。

こんなにも、食べることが楽しかったのはいつ以来だろうと、麻衣は思った。

レクレールで食べる試作料理は、いつも評価をしながら食べていた。技術的に正しいか。バランスはどうか。客席でこれを出したとき、どう感じてもらえるか。そういう問いが常にあった。でも今、目の前の素朴な昼飯には、そういう問いが何もない。ただ食べている。ただ、体がおいしいと言っている。

「ありがとうございます」

麻衣は、はるこに向かって言った。

「なんで?」

「……おいしかったので」

はるこはにこにことして「ありがとうはこっちやよ。一緒に食べてくれたら、よりおいしいからね」と言った。

その日の午後、麻衣は一人で古民家に帰った。

帰り道、手のひらを見た。土の黒さが爪の縁に残っていた。朝から草を引いて、蔓を巻いて、雑草をかき集めて、作業のあいだ中ずっと土に触れていた。

料理人の手だった。いつも清潔に、指先まで神経を張っていた手。水仕事でひびが入りやすい手。その手が、今日は黒い土で汚れている。

麻衣はその手を見ながら、何かが胸の中で揺れているのを感じた。

何かが動き始めている。

それが何なのか、まだわからなかった。でも確かに動いていた。茄子の味噌炒めのとろりとした感触が、まだ舌の端に残っていた。

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第3章

やわらかいところ

五月がゆっくりと深まっていった。

気がつくと、麻衣は畑に通うことが日課になっていた。

最初に行ったのは一度だけのつもりだった。でも翌朝、目が覚めると、体が起き上がろうとしていた。布団の外の空気が、冷えていて清らかで、なんとなく足が動いた。ひさの家に行くと、当たり前のように「来たんか、そこの茄子に水やっといてくれ」と言われた。

それが毎朝続いた。

麻衣は少しずつ、畑の仕事を覚えていった。水やりの順番、雑草の見分け方、収穫のタイミング。茄子は色が濃くて光沢があるうちが摘み時で、くすんできたら遅い。きゅうりはどんどん大きくなるから、毎日確認しないといけない。トマトは熟すと匂いが変わる。甘い匂いがしてきたら食べごろだ。

「よう気がつくようになったね」

ある朝、ひさが言った。

「まだまだです」

「いや、向いとると思う。手が素直なんやろね」

麻衣は黙って、じゃがいもの土寄せをした。「手が素直」という言葉が、胸のどこかに引っかかった。料理人として長く働いて、自分の手は「精密な道具」だと思っていた。正確で、素早く、ミスをしない。そういう手であることを誇りにしていた。素直な手、という表現は、一度も当てられたことがなかった。

はるこが昼の準備をするとき、麻衣はそのそばで見ていることが多くなった。

はるこの料理は、手順がシンプルだった。材料を切る、炒める、煮る、塩をする。それだけ。でも何を組み合わせるか、どのくらいの火加減で、どれだけの時間をかけるか——その判断を、はるこは考えているように見えなかった。まるで当然のように、体が知っているように動く。

「はるこさんは、どこかで料理を習ったんですか?」

「ひとつも習うとらんよ。お母ちゃんがやりよるのを見て、自然に覚えただけや」

「……それだけで?」

「それだけやよ。あなた、料理の学校とか行ったん?」

「はい。でもその前に、まず見て覚えました。厨房の先輩たちの手元を」

「そうやろね。見て覚えるのが一番よ」

はるこは、かぼちゃを切りながら言った。

「見て、やって、失敗して、また見て。そしたら自分の体に入ってくるから。頭で覚えようとすると難しいけど、体で覚えたことは忘れないよ」

麻衣はその言葉を聞いて、レクレールでの最後の頃のことを思い出した。

「お前の料理には感情がない」とシェフに言われた日々。麻衣はそのたびに「では感情とはどういうものか」と考えた。分析して、設計して、それを料理に落とし込もうとした。でも「頭で考えた感情」は、客の舌には届かなかったのだろうか。

体で覚えたことは忘れない。でも麻衣は、十二年かけて体で覚えたことが、あの夜の三分間でどこかへ行ってしまった気がしていた。

「はるこさん」

麻衣は、かぼちゃを切る背中に向かって言った。

「料理が、できなくなることって……ありますか」

しばらくの沈黙があった。

「あるよ」

はるこは振り返らずに言った。

「子どもたちが巣立って、旦那が亡くなった年は、三か月ほど料理できんかった。なんか、誰かのために作るんが嫌になってしもて」

「……それは、どうやって戻ったんですか」

「腹が減ったから」

はるこはくるりと振り返って、にこっとした。

「お腹が減ったら、何か食べたくなるやろ。食べたいものを作りたくなるやろ。そういうもんよ」

麻衣はその答えが、あまりにもシンプルすぎて、少し笑いそうになった。でも同時に、何か大事なことが言われた気がした。

五月の下旬、圭吾が麻衣に会いに来た。

畑の帰り道で、軽トラから降りてきた圭吾と鉢合わせた。

「少し顔色よくなりましたね」

開口一番にそう言われた。

「そうですか」

「畑、毎朝行ってるって聞きました。ひさばあちゃんから」

「……ひささんが言ってたんですか」

「ひさばあちゃん、うれしそうでしたよ」

麻衣は少し意外な気持ちがした。ひさは何も言わなかった。「来たんか」「これやっといて」「ご飯食べていき」、そういうことしか言わない。でもうれしそうだったと聞いて、麻衣は胸が温かくなった。

「圭吾さんは、なぜここに来たんですか」と麻衣は聞いた。

「地域おこし協力隊の任期で」

「それは知ってますけど……もともと何をしてたんですか、東京で」

圭吾は少し間を置いた。

「食の雑誌の編集者でした。農業の現場と、料理の現場をつなぐ特集をずっとやってて……でもあるとき、書いてることと自分が食べてるものが、ぜんぜん違うことに気がつきました」

「どういうことですか」

「取材で農家の人たちに会うと、彼らは旬のものを、その場所のものを食べていた。地続きに、当たり前のように。でも僕はコンビニと外食と、料理特集を作りながらコンビニで夜食を食べていた。それが気持ち悪くなって」

麻衣は、その言葉をしばらく飲み込んだ。

「今は、自分でも野菜を作ってるんですか」

「少し。ひさばあちゃんに教えてもらいながら」

「……じゃあ、おいしいですか」

「おいしいですよ。書いてた頃より、ずっと」

麻衣はそれを聞いて、なぜだか少し泣きそうになった。おいしいですよ、ずっと。その言葉の、確信を持った言い方が。

六月に入る前の週末、麻衣は決心をした。

三人のおばあちゃんたちに、何か作ろうと思った。いつも昼飯をご馳走になってばかりで、何も返していない。恩返しというより、それ以上に、自分でも何かを作りたいという気持ちが、小さいながらも確かにあった。

大がかりなものは作れない。でも何か一つ。

前日の夜、麻衣は一時間ほど考えた。フランス料理の技法は、今の自分には関係ない。材料は畑のものを使う。シンプルに。

翌朝、麻衣は畑の前で三人と合流するより先に、少し早めに起きた。自分の台所の前に立った。

立った。

扉の前に立って、しばらくそこにいた。台所の中が見えた。古いガスコンロ。石のシンク。棚の鍋蓋。

一歩、入った。

足が震えた。でも入れた。

シンクの前に立った。水を出してみた。水が流れた。

麻衣は深呼吸した。

包丁を出そう、と思ったとき、頭の中があの夜に飛んだ。ビスクのスプーン、凪、床に座った自分、「出てこい」という声。

手が止まった。

しばらく台所のシンクの前で、麻衣は動けなかった。コンロに火もつけていない。材料も出していない。ただ立っていた。

何分かして、麻衣はバッグから包丁ロールを取り出した。革のロールをそっと展開すると、五本のナイフが並んでいた。牛刀、ペティナイフ、骨スキ、スライサー、パーリングナイフ。どれも麻衣が長い年月をかけて使い込んできたナイフだ。

牛刀を手に取った。

重さが手のひらに伝わってきた。柄の形を、手のひらが覚えていた。

でも、それだけだった。

今日は、これは使えない、と麻衣は思った。まだだと、体が言っていた。

麻衣はナイフを包丁ロールに戻し、かわりに流しの下の棚を探した。前の住人が残していった台所道具の中に、古い味噌と、昆布があった。

味噌汁なら、作れるかもしれない。

いや、作れる。これは作れる。

出汁は昆布だけで取った。水に昆布を入れて、弱火にかけて、沸騰する前に昆布を引き上げる。その作業を、手が自動的にやった。体が覚えていた。昆布出汁の、緑がかった薄い色。立ち上がる磯の香り。麻衣はそれを鼻で嗅ぎながら、何年ぶりかに、料理している自分を感じた。

畑でもらったわかめを戻した。豆腐を切った。切るときは包丁ではなく、前の住人の菜切り包丁を使った。味噌を溶いた。完成した。

ただの、味噌汁だった。

でも麻衣はそれを小さな鍋ごと持って、はるこに渡した。

「……作りました。よかったら」

はるこは目を丸くした。

「まあ!」

鍋を受け取ったはるこは、蓋を開けて匂いを嗅いだ。そして笑った。

「上手に出汁とっとるやないの。昆布だけで?」

「はい」

「ちゃんと磯の匂いがする。いいね」

その一言が、麻衣の胸に染みた。

昼にみんなで飲んだ。三人とも「おいしい」と言ってくれた。ひさは「あんた、なんやかんや料理ができるんじゃないか」と言って、麻衣は少しだけ笑った。

その日の午後遅く、とよがぽつりと言った。

「野菜はなあ」

麻衣は振り返った。とよが口を開くのは珍しかった。

「野菜は、急いで育てようとしたら必ずひずむんよ」

「……ひずむ?」

「見た目はよくても、中が空洞になったり、味が薄かったりする。野菜が育ちたいように育てたら、形は不格好でも中身がぎっしりつまっとる」

とよはそう言って、また静かになった。

麻衣はその言葉を、もう一度頭の中でなぞった。

急いで育てようとしたら必ずひずむ。

野菜の話だろうか、と麻衣は思った。

野菜だけの話ではないかもしれない、とも思った。

その夜、麻衣は布団に入って、長いこと天井を見ていた。

レクレールで過ごした十二年間のことを考えた。入った最初の年は、毎日怒鳴られながらも、料理することが楽しくてたまらなかった。誰かの皿を運ぶたびに、あの料理が客に届く、という喜びがあった。

でもいつからか、「おいしい料理を作る」ということが、「評価される料理を作る」にすり替わっていた気がする。いつから、だろう。三年目か、五年目か。ミシュランの星が更新されるたびに、「次のシーズンはさらに上を」というプレッシャーが積み上がっていった。麻衣はそのプレッシャーに応えようとして、どんどん「頭で考えた料理」を作るようになっていった。

「お前の料理には感情がない」

シェフの言葉が耳に戻ってくる。

感情がないのではなかった、と今は思う。感情はあった。でも感情を、料理のための燃料として正しく使えなくなっていた。感情が怖かった。感情を出すことで、評価が下がることが怖かった。だから感情を制御して、技術だけで組み立てようとした。

急いで育てようとしたら必ずひずむ。

麻衣はその言葉を、今夜は自分の十二年間に重ねていた。

でも、思ったよりも不思議と、今は悲しくなかった。

台所に入れた。昆布出汁を取れた。味噌汁を作れた。それだけで十分だった。今日は。

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第4章

私のおいしい

六月初めの、雨の朝だった。

目が覚めたとき、雨音がしていた。梅雨入りを知らせる、しとしととした雨ではなく、少し強めの、山の雨だった。屋根を叩く音が一定のリズムを刻んでいて、麻衣はその音の中で横になりながら、今日の天気を考えた。

畑には行けない。

傘があっても、この雨の中でひさたちは作業をしないだろう。麻衣は布団の中でそう判断した。

ではどうするか。

以前なら、この問いに対して「何もしない」という答えが出ていた。布団の中にいる。コンビニに行く。眠る。それだけだった。

でも今日は、違う気持ちが起きてきた。

何か、食べたい、という気持ち。

昨日からずっと、ある感覚が体の中にある。あの、はるこが最初の昼飯に作ってくれた茄子の味噌炒めの感触が、舌の記憶として残っている。それと、はるこの言葉。腹が減ったら、食べたいものを作りたくなるやろ。そういうもんよ。

今、腹が減っていた。

食べたいものがあった。

はっきりと、あった。

麻衣は起き上がった。

傘をさして、ひさの畑の入り口まで歩いた。ひさから「いつでも来ていい」と言われていた。鍵はかかっていなかった。麻衣は畑のあぜ道に入り、作物の様子を見ながら歩いた。

雨に濡れた茄子が、つやつやと光っていた。

きゅうりは、一晩で伸びていた。収穫しないとあっという間に大きくなりすぎる、と教えられていた。麻衣はズボンの膝が少し濡れるのもかまわず、しゃがみこんでちょうどいい大きさのきゅうりを探した。手で触れると、きゅうりのひんやりした感触と、棘の感触が伝わってくる。ぽきっと折る。

茄子を二本、もいだ。細長い長茄子で、どちらも形がいびつだった。一本は根元のほうが太くて先が細い。もう一本は途中でくいっと曲がっている。でも色は濃く、艶がある。ずっしりと重い。

きゅうりを二本。

畑の端のほうに生えているシソを、五、六枚摘んだ。雨のシソは、葉が水気を含んでいてやわらかく、指先に触れると爽やかな香りが立った。

それから、とよが作った梅干しが軒先に並べられているのを思い出して——梅干しの瓶は以前、ひさにもらっていた——古民家へ帰った。

傘を閉じた。玄関を上がった。廊下を歩いて、台所へ向かった。

麻衣は台所に入った。

今日は、躊躇しなかった。

台所の窓から、雨が見えた。山の緑が、雨でさらに濃くなっている。

麻衣は流しでさっと野菜を洗った。きゅうりのざらついた表面を手で撫でながら、棘を取る。茄子は水気を拭き取った。シソは軽く流して、束ねておく。

冷蔵庫の中に、昨日はるこからもらった豆腐があった。半丁使おうと思った。それから、先週買ってきた赤みそと、昆布。

今日、麻衣が作りたいと思ったのは——

茄子の焼きびたし。
きゅうりとシソの浅漬け。
赤だしの味噌汁。
白飯。

それだけだった。

フランス料理でも、凝った一皿でもない。ただの、日本の家庭料理だった。子どもの頃に食べていたもの、祖母の台所で嗅いでいたもの、あの温かさのようなもの。

麻衣は、前の住人が残していったガスコンロのつまみをひねった。ぼっと青い炎が点いた。

米を研いだ。冷たい水で三回研いで、水を張って炊飯器にセットした。炊飯器のスイッチを入れると、機械的な音がした。それだけで、台所が少し生きた気がした。

次に、昆布を水に入れて弱火にかけた。昆布出汁を取る。この作業は先週もやった。でも先週は手が震えていた。今日は震えていない。

昆布が沈んで、水がゆっくり温まっていく間に、麻衣はきゅうりの浅漬けを作り始めた。きゅうりを斜め薄切りにする。菜切り包丁を使った。まだ自分の牛刀は、今日は出さないと決めていた。でも菜切り包丁を握る手は、ちゃんと包丁を知っていた。ぱんぱんと切る。

切ったきゅうりをボウルに入れ、塩を一つまみふる。手でよく揉む。しばらく置いておく。シソをちぎって、後から加える。梅干しの果肉を少しだけほぐして混ぜる。これだけで、立派な一品になる。

出汁が温まった頃、麻衣は昆布を引き上げた。澄んだ薄緑がかった出汁が鍋に残る。豆腐を手のひらに乗せて、崩しながら入れた。大きさが不揃いでいい。煮立たせないように、静かに温める。

茄子の焼きびたしは、少し手間がかかる。

コンロの火を強くして、茄子を直火にかけた。菜箸でつまんで、皮が全方向に焦げるよう、回しながら焼く。炎が茄子の表面に触れるたびに、ぱちぱちと音がする。皮が黒く焦げていく。焦げた匂いが立ち込める。少し煙が出た。窓を少し開けた。雨の湿った外気が入ってきた。

焼けた茄子を、そのまま氷水に入れた。皮が冷えると、するりと剥ける。剥がした皮の下から、黄金色をした、とろとろの果肉が現れた。

別の小鍋に、昆布出汁を少し分けて、醤油とみりんを足して、ひたし地を作った。甘みと塩分と出汁の香り。茄子を浸す。十分ほど置く。

その間、麻衣は出汁の残りに赤みそを溶いた。

みそを溶くとき、匂いが来た。

赤みその、深くて香ばしい匂い。体の奥から何かが揺れる感覚があった。料理の匂いが、台所に満ちている。昆布の磯の匂い、みそ、醤油、みりん、茄子の焦げた匂い、シソのさわやかな匂い。全部が混ざり合って、台所がひとつの場所として息をしているような感覚があった。

炊飯器から、蒸気が出始めた。米が炊けていく匂い。

麻衣は台所に一人で立って、それらの匂いの中にいた。

すべてが整ったのは、一時間も経たないうちだった。

茄子の焼きびたし、きゅうりとシソの浅漬け、赤だしの豆腐汁、白飯。

盆に乗せて、居間のテーブルへ運んだ。

麻衣は椅子に座って、箸を手に取った。

まず、赤だしを一口飲んだ。

赤みその、深い香りが口に広がった。とろりとした出汁の感触。豆腐がやわらかく崩れる。暖かさが喉を通っていく。

麻衣は、しばらく何もせずに座っていた。

おいしい。

その言葉が、頭で考える前に体から来た。出汁の加減も、みその量も、特別なことは何もしていない。でも、おいしかった。

白飯を一口食べた。炊飯器で炊いただけの、なんの変哲もない白飯。でも、米の甘みがした。嚙むたびに、じわりと甘みが出た。

茄子の焼きびたしを食べた。

とろけた。焦げた皮の苦みが、ひたし地に一夜漬けたように染みていて、でも茄子の甘みが消えていない。醤油の塩分が、茄子の水分と混ざり合っている。口の中で、いくつかの味が層になって届く。

麻衣はそれを食べながら、はるこの茄子の味噌炒めのことを思い出していた。あの日、畑の脇の竈の前で食べた、あの昼飯。

あのとき、おいしいと思った。本当に。

今日も、おいしいと思った。自分で作ったものが。

——ああ、そういうことか。

麻衣は、箸を置いた。

窓の外の雨が、少し弱くなっていた。山の緑が、雨の向こうにひっそりと立っている。

「おいしい」ということは、何の証明も要らなかった。完璧な技術も、ミシュランの評価も、シェフの承認も、必要なかった。腹が減って、食べたいものを思い浮かべて、台所に立って、作った。それだけだった。食べたら、おいしかった。それだけのことだった。

でも麻衣はその「それだけ」を、十二年間、見失っていたのかもしれない。いや、もっと正確に言えば、見失っていたのではなく、「それだけ」の上にどんどん何かを重ねて、どこかの時点でその重さに押しつぶされていたのかもしれない。

評価されるための料理。認められるための技術。感動させるための皿。

それが悪いわけではない。プロとして、客席に料理を出す以上、それは本物の使命だった。

でも、その使命を背負う前の、自分自身の中の「おいしい」を、麻衣は失っていた。

腹が減ったら、食べたいものを作りたくなるやろ。

はるこの言葉が、もう一度聞こえた気がした。

昼前に雨が上がった。

麻衣は食器を洗い、台所を片付けた。シンクの前に立って、水を使いながら、平静な気持ちでいた。料理をしたことの興奮も、安堵の涙もなかった。ただ、普通にご飯を食べた人間の、静かな満足感があった。

食器を拭きながら、麻衣は台所を見回した。

古い四口コンロ。石のシンク。木の棚。前の住人が残していった鍋蓋たち。

この台所に、今日、麻衣は何時間もいた。

台所が、場所として息をしていた。

麻衣は台所の棚の上に、自分の包丁ロールを置いた。今日使ったわけではない。でもここに置こうと、自然に思った。

それから、包丁ロールを開いた。

革のロールを広げると、五本のナイフが並んでいた。牛刀、ペティナイフ、骨スキ、スライサー、パーリングナイフ。レクレールでの十二年間、麻衣の手に馴染んできたナイフたち。最後に研いだのはいつだったか、刃を見るとほんの少し曇っていた。

麻衣は牛刀を手に取った。

重さが手のひらに伝わってきた。握り慣れた柄の感触が、手の形の記憶に合った。

震えなかった。

麻衣は牛刀を光にかざした。刃が白く光った。この刃を、次にちゃんと使う日が来るだろう、と思った。今日ではない。でも来る、と思った。

確かに来る、と思った。

窓の外で、雨上がりの山が光っていた。水気を含んだ緑が、光に透けてきらきらしている。田んぼの水面が、また橙色に光り始めていた。

麻衣は牛刀を包丁ロールに戻し、台所の棚の上に置いた。

明日は晴れるだろう。そうしたら畑へ行こう。

ひさが今日の雨で何を思っているか気になった。はるこが昼に何を作ったか知りたかった。とよが、畑の脇の竈の前でぽつりと言うかもしれない何かを、聞きたかった。

台所を出て、廊下を歩き、居間の窓を開けた。

雨上がりの空気が、土の匂いと草の匂いを運んで入ってきた。

麻衣はその匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。

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After Reading

読後の余韻に、次の一編を。

ほんすこ編集部レビュー

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