土の匂い
四月の終わりのことだった。
松本麻衣がその集落に着いたのは、曜日の感覚がとうにどうでもよくなった頃で、手帳を見れば火曜日とある。重いボストンバッグをふたつ、ひとつは右手に提げ、もうひとつは肩に担いで、軽トラの荷台から降りた。
「ここじゃ」
軽トラを運転してきた橋本圭吾が、小さな集落の一角を指さした。
石垣の向こうに、古い木造の農家が見えた。屋根は黒く重く、壁板は雨と年月に塗り込められてほとんど黒ずんでいる。玄関の引き戸の前に大きな鉢植えが置かれていて、そこだけが妙に明るかった。スイートアリッサムの白い花が、風もないのに少し揺れていた。
「隣のひさばあちゃんが植えてくれたんですよ。松本さんが来るって聞いて、急に張り切り始めて」
圭吾は言いながら荷物を持とうとした。麻衣は首を振った。自分で運ぶ。バッグを持つくらいのことはできる。できないのはほかのことで。
集落の名前は奥東(おくひがし)といった。香川県の山あい、最寄りのコンビニまで車で三十分、最寄りのスーパーまで四十五分かかる場所で、世帯数は今年で十七になった。麻衣が移住希望の電話を入れたとき、窓口の担当者は「一度実際に見てから決めてください」と言った。麻衣はそのまま決めた。見に来なかった。どこでもよかったのだ、東京じゃなければ。
古民家の鍵を受け取り、引き戸を開けると、古い家の匂いがした。木と土と、誰かが長い時間をかけて染み込ませた生活の匂い。麻衣は玄関に立ったまま、そのにおいをしばらく嗅いでいた。子どもの頃、祖父母の家へ行くたびに嗅いでいた匂いに似ていた。小学生の夏休み。岡山の祖父母の家。畳の部屋と縁側と、台所からかつお節の出汁が漂ってきていたあの感じ。
廊下を抜けると広い土間がある。その奥に台所があった。
台所の前で、麻衣の足が止まった。
扉は開いていた。古い四口のガスコンロが見えた。深い石のシンク。木の棚に並んだ誰かの残していった鍋蓋たち。それだけなのに、麻衣の体は石になったようだった。手の先が、かすかに震えた。
「松本さん?」
「……後で、見ます」
圭吾は少し間を置いてから「そうですね」と言った。それ以上は聞かなかった。
麻衣が奥東に来た理由を、圭吾は知っていた。移住の相談電話をかけたとき、麻衣は説明した。できるだけ端的に、できるだけ感情を交えないように。「厨房で仕事ができなくなりました。料理から離れたいと思っています。静かなところに行きたいのですが」。圭吾は「わかりました」とだけ言った。それ以上を掘り下げなかった。麻衣はその電話を切ったとき、少しだけ泣いた。理由は今もわからないが、泣いた。
居間に荷物を置いた。圭吾が近くのスーパーの場所と、ゴミの出し方を説明してくれた。集落の決まりごとを書いた紙を渡してくれた。「困ったことがあれば何でも連絡してください」と言って名刺を置いて帰っていった。
一人になった。
窓から見える景色は、田んぼと山だった。田んぼはちょうど水が張られた頃で、夕方の光が水面に橙色に反射している。山は萌黄色だった。あんなにも山が緑なのに、東京に住んだ十二年間、麻衣はほとんど山を見たことがなかった。いつも下を向いていた。調理台のステンレス、皿の白、包丁の刃先、スプーンの曲面に映る自分の歪んだ顔。
麻衣は居間の床に座り、持ってきたコンビニのおにぎりを食べた。鮭と昆布。だいぶ遅れた昼食だった。咀嚼しながら、何も考えないようにした。
考えると、あの夜のことが出てきてしまうから。
東京・広尾のフランス料理店「レクレール」。ミシュランの一つ星。麻衣が二十二歳で入り、十二年間を費やした場所。スー・シェフという肩書きは、もちろん最初からついていたわけではない。一番下から始めて、何度も怒鳴られ、何度も泣いて、それでも続けた。続けたのは、料理が好きだったからだ。
好きだったのだ、と麻衣は今、過去形で思う。
三月初旬の水曜日。ディナーサービスの二時間前。麻衣はソースの最終確認をしていた。エスカルゴのバターソース、トリュフ風味のビスク、仔牛のジュ・ド・ヴォー。それぞれをスプーンで掬っては口に運んで確認し、若いコックたちに指示を出しながら、仕込みのチェックを並行してこなしていた。いつもと変わらない光景だった。
ではなぜあんなことが起きたのか、麻衣にも今もってよくわからない。
ビスクのスプーンを口に運んだとき、何かがぷつりと切れた。
味がわからなかった。いや、わからないというより——どうでもよくなったのだ。「おいしい」か「おいしくない」かという判断が、どこか遠いところへ行ってしまった感覚。どんな味がしても「これでいい」「これで構わない」という、恐ろしい凪。十二年間、毎日毎日、その感覚で仕事をしてきた自分が、ある瞬間にぷつりと消えた。
麻衣はスプーンを鍋の縁に置き、静かに厨房を出た。スタッフトイレに入り、床に座った。出ることができなかった。サービスが始まっても出られなかった。シェフが怒鳴り込んできた。「何をやってる、松本。出てこい」。麻衣は出られなかった。
その年の冬から、シェフとのやりとりが続いていた。次のシーズンのメニュー刷新に向け、試作を繰り返していた。「松本のアイデアは頭でっかちだ」とシェフに言われた。「お前の料理には感情がない」と言われた。麻衣は「もう一度やります」と言って、翌日また試作を持っていった。「違う」。また持っていった。「違う」。それが何週間も続いた。
でも、そのことと直接関係があるかどうかも、麻衣にはわからない。もしかしたらただ疲れていただけかもしれない。もしかしたらもっと深いところで、ずっと前から何かが限界を迎えていたのかもしれない。
翌日、退職届を出した。シェフは引き止めなかった。
引き止めなかったことに麻衣は傷ついたが、もう関係なかった。
奥東の夜は、東京とまったく違う暗さをしていた。
街灯がない。星がある。こんなに多くの星が夜空にあることを、麻衣は知らなかった。いや、知っていた、ただ見ていなかっただけで。
その夜、麻衣はコンビニで買ってきたカップの味噌汁を飲んだ。居間のテーブルで、テレビもつけずに。お湯を注いだだけの、粉末出汁と乾燥わかめの汁。
飲めた。
飲めるということが、少し意外だった。あの夜から、食べるたびにどこかで評価しようとする自分が出てきて、でももう評価できないから怖かった。食べ物を前にすると「おいしいかどうかわからない」という恐怖が先に来る。それが怖くて、コンビニのものを選んでいた。プロが自分では食べないような、添加物たっぷりの既製品を。
でもコンビニの味噌汁は、なんとなく飲めた。おいしいかどうかはわからない。でも飲めた。
麻衣はその小さな事実を、心のどこかにそっと置いた。
最初の一週間は、ただ眠って過ごした。
奥東の朝は早い。五時になると周囲が動き出す音がする。畑に行くお年寄りたちの声、鶏の声、遠くで始まるトラクターのエンジン音、カラスの鳴き声。麻衣はその音を布団の中で聞きながら、また眠った。何年分かの疲れが出ているのか、気がつくと午前十時を過ぎていることが珍しくなかった。
起きると顔を洗い、コンビニへ行った。あるいは、コンビニへ行く気力もなく、買い置きのカップ麺やおにぎりを食べた。あるいは何も食べなかった。
圭吾が二日おきくらいに様子を見に来た。短い会話をして帰っていった。困ったことはないか、生活は大丈夫か。麻衣は「大丈夫です」と言い続けた。
台所には入らなかった。
台所の前を通るとき、麻衣はいつも廊下側の壁に向いて通った。見ないようにした。台所のドアはずっと開いていたが、麻衣はその部屋を封じているつもりでいた。包丁はバッグの中にある。料理人の道具として研いで丁寧に革の包丁ロールに巻いた五本のナイフ。なぜ持ってきたのか自分でもわからなかった。でも手放すことができなかった。バッグの底に眠らせたまま、麻衣は台所のドアの前を、毎日壁を向いて通りすぎた。
ところが、移住して八日目の朝、台所のテーブルの上に何かが置かれていた。
茄子が三本。曲がったきゅうりが二本。大きなトマトが四個。そしてその隣に、小さな紙切れ。
『おいさんの畑のや。よかったら食べんかい。山下ひさ』
鉛筆で書かれた、大きくて力強い文字だった。
麻衣はその文字をしばらく見ていた。
「入ってきたのか」と思った。鍵をかけていなかったから、入れたのだ。田舎の古民家の暮らしに、そういう慣習があることを麻衣は知らなかった。しかし不思議と不快ではなかった。むしろ、胸のどこかがじわりと緩む感覚があった。
野菜は、どれも不格好だった。茄子は先端が大きく曲がっている。きゅうりはほとんど直角に折れている。トマトは一個ずつ形が違って、色も大きさもまるでばらばら。スーパーで売っている、規格で揃えられた均一な野菜とは、まるで違う顔をしていた。
麻衣は茄子を一本手に取った。ずっしりと重く、表面が艶やかに紫紺に光っている。台所には入れなかったから、廊下のところで茄子を持ったまま、しばらく立っていた。
この野菜を、昔の自分なら何にするだろう。
焼く。直火でしっかり焼いて、皮が裂けてとろりとなったところに、おろし生姜と醤油をかける。あるいは、縦に切って素揚げにして、だし汁に浸して焼きびたしにする。あるいはフレンチ風に、ハーブとオリーブオイルでラタトゥイユにする。昔は材料を前にすると、そういう思考が自動的に走ったものだった。料理の設計図が、見た瞬間に頭の中に展開された。
でも今はその思考が途中で止まる。台所に入ることを想像しただけで、胸のあたりに何かが詰まる。
麻衣はそっと茄子をテーブルに戻した。
翌日、山下ひさが正面玄関からやってきた。
「こんにちはー! 生きとる?」
引き戸を開ける前から、声が届いた。
山下ひさは、七十八歳とは思えない勢いで靴を脱いで上がり込んできた。短く切った白髪に、紺色のモンペ。腰まで届く大きなエプロンは草の汁で薄く汚れていた。目が細くて、いつも笑っているような顔をしているが、言葉はびっくりするほど率直だった。
「台所、全然使うとらんのね」
ひさは台所を覗いて、そう言った。
「……ええ、まあ」
「コンロのとこ、触った跡もない。なんで? 体の具合が悪いん?」
「少し……体調が優れなくて」
「ふうん」
ひさはしばらく台所を見てから、くるりと麻衣に向き直った。
「野菜、置いといたけど使うたか?」
「……まだです」
「そうか」
ひさは何かを言おうとして、やめた。代わりに「また持ってくるわ」と言った。そして帰り際、当然のように付け足した。
「明後日、畑に来てみんか。何もせんでええ。ただ来るだけでいいよ」
麻衣は反射的に「いえ、私は——」と言いかけた。しかしひさはもう玄関を出ていた。引き戸が音を立てて閉まった。
その夜、もらった野菜が萎びていることに気がついた。
麻衣は台所のテーブルから、そっと野菜を取り出した。四つのトマトのうち一つには亀裂が入り始めていた。きゅうりは張りを失ってへにゃりとしている。茄子はまだ艶があったが、先のほうから皮が縮み始めていた。
不格好な野菜が、ゆっくりと萎びていた。台所のテーブルで、使われないまま。
麻衣はそれをビニール袋に入れ、ゴミ袋の口を結びながら、ひっそりと「ごめんなさい」と言った。誰にも聞こえない声で。誰へ向けた言葉かもわからないまま。
ひさに対してか、野菜に対してか、それとも、かつての自分に対してか。
その夜、麻衣は布団の中で目を開けたまま、明後日の朝のことを考えた。行かなくていい、と思った。行けない、とも思った。でも眠れなかった。窓の外で、誰かの畑の畦の上に月が出ていた。田んぼの水面が白く光っていた。
明け方に、麻衣はようやく決めた。
行ってみよう、と思った。ただ行くだけでいい。ひさがそう言ったのだから。
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