第一章
路地の角を曲がったとき、空気が変わった。
甘くて、少し切ない香り。
葛城みつきは足を止め、顔を上げた。細い石畳の路地の奥、くすんだ煉瓦の塀に沿って、古びた木造の建物が静かに立っている。
窓の外に小さな鉢植えが並び、濃紺の暖簾が秋風にゆっくりと揺れていた。
「喫茶 金日」
かすれかけた墨文字の看板が、そう読める。
みつきは今日、会社を半日休んだ。理由はうまく説明できない。ただ、一人でどこかを歩きたかっただけだ。祖母が旅立ってから、もう二週間が過ぎようとしているのに、まだ何かが胸の奥に引っかかっていた。うまく泣けなかった。うまく笑えなかった。毎朝の通勤電車の中で、ただ窓の外を眺めていた。
引き寄せられるように、みつきは暖簾に手を伸ばした。
ドアを開けると、細いベルの音がした。
店内は狭かった。カウンターに四席、窓際に二人掛けのテーブルが二つ。照明は温かみのある橙色で、年季の入った木の床がかすかにきしんだ。客は誰もいなかった。
カウンターの向こうで、老人がゆっくりとこちらを向いた。白いエプロンをつけた、背の低い男性だった。年は七十を過ぎているだろうか。静かな目をしていた。
「いらっしゃい」
それだけ言って、老人は微笑んだ。


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