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感動

金木犀がほどけるまで

ほどけない悲しみに、秋の香りが触れる。

あらすじ

祖母を亡くして二週間、うまく泣けないまま街を歩いていた葛城みつきは、金木犀の香りに導かれるように古い喫茶店へ入る。壁に並ぶ写真、静かな老店主、金木犀入りのほうじ茶。過去と現在のあわいで、みつきの胸に固まっていた悲しみが少しずつほどけていく。

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第1章

第一章

路地の角を曲がったとき、空気が変わった。

甘くて、少し切ない香り。

葛城みつきは足を止め、顔を上げた。細い石畳の路地の奥、くすんだ煉瓦の塀に沿って、古びた木造の建物が静かに立っている。

窓の外に小さな鉢植えが並び、濃紺の暖簾が秋風にゆっくりと揺れていた。

「喫茶 金日」

かすれかけた墨文字の看板が、そう読める。

みつきは今日、会社を半日休んだ。理由はうまく説明できない。ただ、一人でどこかを歩きたかっただけだ。祖母が旅立ってから、もう二週間が過ぎようとしているのに、まだ何かが胸の奥に引っかかっていた。うまく泣けなかった。うまく笑えなかった。毎朝の通勤電車の中で、ただ窓の外を眺めていた。

引き寄せられるように、みつきは暖簾に手を伸ばした。

ドアを開けると、細いベルの音がした。

店内は狭かった。カウンターに四席、窓際に二人掛けのテーブルが二つ。照明は温かみのある橙色で、年季の入った木の床がかすかにきしんだ。客は誰もいなかった。

カウンターの向こうで、老人がゆっくりとこちらを向いた。白いエプロンをつけた、背の低い男性だった。年は七十を過ぎているだろうか。静かな目をしていた。

「いらっしゃい」

それだけ言って、老人は微笑んだ。

第2章

第二章

みつきはカウンター席に腰をおろした。

正面の壁には、額に入った写真が何枚も飾られていた。白黒の写真、セピア色の写真、色あせたカラー写真。年代はばらばらで、映っている人物も風景もさまざまだった。

その中の一枚に、みつきの目が止まった。

若い女性が一人で立っている。川べりか、あるいは庭の木の下か。背景はぼやけていてよくわからないが、女性は柔らかく笑っていた。着物の衿元が少し乱れている。なんでもない瞬間を切り取ったような、でも、それだからこそ息をしているような写真だった。

なぜだろう、その笑い方が、どこかで見たことがあるような気がした。

「何にしますか」

老人の声に、みつきは視線を戻した。

「あの、温かいものを。なんでも」

「じゃあ、ほうじ茶にしましょうか。今日はちょうど、金木犀を少し入れてあるんです」

老人は迷いなく言った。みつきが頷くより先に、すでに手を動かし始めていた。

ゆっくりとお湯が注がれる音。茶葉が蒸らされる静かな時間。

みつきはまた、壁の写真に目をやった。着物の女性の隣に、建物の前で大勢が並んだ集合写真がある。日付らしき数字が隅に白く焼きついていた。ずいぶん昔のものだ。

「あの写真は、この辺りで撮ったものですか?」

「そうです。この路地のすぐそこで。もう何十年も前になりますね」

老人は静かに答えた。

「今はだいぶ変わりましたが、あのころはまだ、銭湯も豆腐屋もありました。朝になると豆腐売りが声を出して回っていて、子どもたちが路地でいつも遊んでいた」

みつきは目を細めて聞いた。話し方が、祖母に似ていると思った。

古い喫茶店のカウンターで、みつきが壁の写真を見つめ、老店主が静かにお茶を淹れようとしている場面
第3章

第三章

ほうじ茶が出された。

小さな湯呑みに注がれた薄橙色のお茶が、細い湯気を立てている。鼻先に、ほのかに甘い香りが漂った。金木犀だ。

思わず目を閉じた。

どこかに連れて行かれるような気がした。夢の中のような、遠い記憶の中のような。

祖母の家の縁側。秋の午後。

濡れ縁に腰かけて、二人でお茶を飲んでいた。庭の隅に金木犀の木があって、毎年この時期になると、小さな橙色の花が咲いた。祖母はいつも決まって、「これが咲くと、もう冬が来るよ」と言った。

寂しいな、とみつきが言うと、祖母は笑った。

「寂しくないよ。また来年も咲くんだから」

その声を、みつきはもう一度聞きたかった。ただそれだけのことが、二週間ずっと、胸の奥に溜まり続けていた。

みつきはゆっくりと目を開けた。

店内には変わらず、橙色の光が満ちていた。カウンターの向こうで、老人がカップを磨いている。その手つきが静かで、見ていると不思議と落ち着いた。

「あの写真の女性は、どなたですか」

みつきは、着物の女性の写真に目をやりながら聞いた。

老人は少し間を置いた。

「家内です。もう随分前に逝きまして」

「……そうでしたか」

「よく、あそこに立っていたんですよ。庭と家の境目のあたりが好きで。どこか行くわけでもなく、ただぼんやりしていた」

老人は話しながら、微かに目を細めた。

「外でも内でもない場所が、居心地がよかったんでしょうな」

みつきは何も言えずに、湯呑みを両手で包んだ。温かかった。

第4章

第四章

「実は」と老人が言った。

「今月いっぱいで、この店を閉めることにしたんです」

みつきは顔を上げた。

老人は穏やかに続けた。

「体がそろそろ、言うことを聞かなくなってきまして。息子に言ったら、もうやめなさいと。まあ、そうだろうと思っていましたよ」

「残念です」

みつきは正直に言った。

「来たばかりなのに」

「ありがとうございます」老人は笑った。「でも、不思議なことがあってね。閉めると決めてから、しばらく来ていなかったお客さんが戻ってくるんですよ。今日みたいに、ふらりと」

「呼ばれたのかもしれないですね」

みつきがそう言うと、老人はしばらく考えてから、「そうかもしれないですね」と静かに頷いた。

外からまた、金木犀の香りが漂ってきた。

みつきは湯呑みを口に運んだ。温かいほうじ茶が、するりと喉を通っていく。甘い。ただ甘いのではなく、少し苦くて、それがちょうどよかった。

二週間、胸の中で固まっていたものが、そっとほどけていく気がした。

悲しみが消えたわけではない。でも、もう少し、この重さと一緒に歩いていける気がした。

壁の写真の女性が、相変わらず柔らかく笑っている。外でも内でもない場所で、どこへ行くわけでもなく、ただそこに立っている。

みつきは、その笑顔がほんの少しだけわかった気がした。

「また来ていいですか」

気づくと、そう言っていた。

老人は一瞬、目を細めた。

「今月中なら、いつでも」

暖簾をくぐって外に出ると、石畳の路地に秋の光が斜めに差していた。金木犀の香りはまだそこにあって、みつきは立ち止まらなかった。ただ、少しだけゆっくり歩いた。

来年もこの香りは来る。

祖母が言っていたように、また来年も咲く。

それだけのことが、今日はなぜか、ちゃんと信じられた。

After Reading

読後の余韻に、次の一編を。

ほんすこ編集部レビュー

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