第一章 喫茶ベルーガ2号機の住人
ぼくの名前は、コインだ。
正確に言うなら「喫茶ベルーガ2号機」の内部に住みついた古参コインの一枚で、特定の名前はない。でもこれは別に寂しいことじゃない。ここに長くいれば、それが自分の名前みたいなものだ。
ぴかぴかの新品じゃない。ぼんやりとした銀色の表面には、細かな傷が無数についている。端っこは少し削れている。胸を張って誰かに差し出せるかといえば微妙だが、これがキャリアというやつだ。ぼくはそう思っている。だいたい。
住まいは台の内底——フェルト素材の内部クッションのそばだ。
このフェルトがまた年季モノでね。
かつては鮮やかな緑色だったはずなのに、今はくすんだ苔色というか、日陰で育った亀の甲羅みたいな色をしている。弾力? そんなものはとっくに卒業した。触れるたびにしんなりと沈んで、薄い毛布みたいな感触でぼくをふんわり包む。
嫌いじゃない。むしろ好きだ。
ぼくみたいに傷だらけで、くたびれていても、ちゃんとここにいる。そういうことを、このフェルトは静かに教えてくれる。
「喫茶ベルーガ」というテーマがまたいいんだ。
内壁には、コーヒーカップや、のんびりした顔のシロイルカのイラストが印刷されている。シロイルカのことをベルーガというらしい。ふっくらした頬っぺたで、ちょっと笑ってるみたいな顔をしているやつだ。液晶には、白い開襟シャツを着た老紳士のウェイターが、丁寧にコーヒーを注ぐ演出が流れる。昔はよく光っていた。今は少しちらつくけれど、それでも毎回ちゃんと光る。
ぼくはこの台の歴史を全部知っている。
最初に来た客のこと。初めて大当たりが出た夜のこと。悔しくて席を立てなかったおじさんのこと。リーチで手を祈るように組んでいた若者のこと。雨の日に入ってきて、傘を足元に置いて黙って回し続けていた女のこと。全部、全部覚えている。
コインには記憶がある。それが唯一の特技だ。
さて、同居人たちを紹介しよう。
まず**リール先生たち**だ。第一リール、第二リール、第三リール——通称「一番、二番、三番」。三兄弟のように並んでいるが、性格はバラバラだ。
一番はとにかく几帳面だ。「今日の回転数は昨日より〇・三回多い」とか「このコインの重量は平均より〇・〇一グラム軽い」とか、誰も聞いていない細かいことを延々と報告してくる。でも正確さだけは抜群だ。
二番は口うるさい。「コイン、整列しろ」「回転前に心構えをしろ」「そこ、ちゃんと寝ろ」とかなんとか、しょっちゅう注意してくる。おじさんというよりもはやおじいさんだ。でも実は一番心配性で、台の具合をいちばんよく見ている。
三番は基本的に黙っている。でもたまにどすの利いた声で「……うるさい」と言う。そのたびに一番と二番が同時に黙る。三番が一番怖い。でもぼくは知っている。三番が一番優しいということを。
そして**投入口**だ。
台の上部、コインが入ってくる「正面玄関」を管理する彼は、毎回ドラマチックだ。大げさとも言う。コインが一枚入ってくるたびに、
「——ッ来たあああ!! 客人の御来訪ーーーっ!!!」
と叫ぶ。
うるさい。毎回うるさい。
でも彼なりの使命感があるのは知っているから、ぼくたちはわりと放置している。一番は「本日〇回目の御来訪」と几帳面にカウントするし、二番は「うるさい!」と怒鳴り返すし、三番は黙っている。それがいつもの喫茶ベルーガ2号機の朝だ。

そんな日常に、変化が訪れたのは、ある月曜日の朝のことだった。
ガコン、という音がホールに響いた。
何か重たいものが運ばれてくる振動が、フェルトを通じてじんじん伝わってくる。
「なんだなんだ?」二番がそわそわした。
「新入りだ」三番がぽつりと言った。
ぼくは内壁の隙間から、かろうじて外を覗いた。
隣の台が——変わっていた。
長い間、空きスペースだったそこに、ぴかぴかの台が鎮座していた。まぶしいくらいの光沢を放ち、赤と金のド派手な筐体に、でかでかと文字が書いてある。
「777ロマンス」
ふん。随分と景気のいい名前だな、と思った。
「うわー!! すごい、すごーい! ここってこんなに明るいんだ!!」
聞こえてきた声は、コロコロと弾むような声だった。
壁越しに、振動で伝わってくる。コイン同士は「コイン語」で話せる。台と台の間の薄い仕切りを通じた、ぽんこんこん、という振動の言葉だ。
「えっ、となりに誰かいる? ねえ、います? いますよね?」
ぼんこん、ぽこん。
「います? ねえねえ」
…………ぽん。
思わず返事をした。
「いる」
「わーっ! いた! はじめまして! あたし、777ロマンスの新入りコインです! よろしくおねがいしまーす!!」
元気だな、と思った。眩しいくらい元気だな、と思った。
と同時に、ぼくの古い傷が、なんだかむず痒いような気がした。

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