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少し不思議

最後の一回転、きみに賭ける

古いコインが見つけた、最後の大当たり。

あらすじ

古い遊技台「喫茶ベルーガ2号機」の中で長く過ごしてきた一枚のコイン、べる。隣に新台「777ロマンス」が入り、新入りコインのロマと出会ったことで、静かだった日々は少しずつ色づいていく。けれど、喫茶ベルーガの撤去が決まり、残された時間は七日間。最後の一回転を前に、べるはロマへ伝えたい想いを抱える。

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第1章

第一章 喫茶ベルーガ2号機の住人

ぼくの名前は、コインだ。

正確に言うなら「喫茶ベルーガ2号機」の内部に住みついた古参コインの一枚で、特定の名前はない。でもこれは別に寂しいことじゃない。ここに長くいれば、それが自分の名前みたいなものだ。

ぴかぴかの新品じゃない。ぼんやりとした銀色の表面には、細かな傷が無数についている。端っこは少し削れている。胸を張って誰かに差し出せるかといえば微妙だが、これがキャリアというやつだ。ぼくはそう思っている。だいたい。

住まいは台の内底——フェルト素材の内部クッションのそばだ。

このフェルトがまた年季モノでね。

かつては鮮やかな緑色だったはずなのに、今はくすんだ苔色というか、日陰で育った亀の甲羅みたいな色をしている。弾力? そんなものはとっくに卒業した。触れるたびにしんなりと沈んで、薄い毛布みたいな感触でぼくをふんわり包む。

嫌いじゃない。むしろ好きだ。

ぼくみたいに傷だらけで、くたびれていても、ちゃんとここにいる。そういうことを、このフェルトは静かに教えてくれる。

「喫茶ベルーガ」というテーマがまたいいんだ。

内壁には、コーヒーカップや、のんびりした顔のシロイルカのイラストが印刷されている。シロイルカのことをベルーガというらしい。ふっくらした頬っぺたで、ちょっと笑ってるみたいな顔をしているやつだ。液晶には、白い開襟シャツを着た老紳士のウェイターが、丁寧にコーヒーを注ぐ演出が流れる。昔はよく光っていた。今は少しちらつくけれど、それでも毎回ちゃんと光る。

ぼくはこの台の歴史を全部知っている。

最初に来た客のこと。初めて大当たりが出た夜のこと。悔しくて席を立てなかったおじさんのこと。リーチで手を祈るように組んでいた若者のこと。雨の日に入ってきて、傘を足元に置いて黙って回し続けていた女のこと。全部、全部覚えている。

コインには記憶がある。それが唯一の特技だ。

さて、同居人たちを紹介しよう。

まず**リール先生たち**だ。第一リール、第二リール、第三リール——通称「一番、二番、三番」。三兄弟のように並んでいるが、性格はバラバラだ。

一番はとにかく几帳面だ。「今日の回転数は昨日より〇・三回多い」とか「このコインの重量は平均より〇・〇一グラム軽い」とか、誰も聞いていない細かいことを延々と報告してくる。でも正確さだけは抜群だ。

二番は口うるさい。「コイン、整列しろ」「回転前に心構えをしろ」「そこ、ちゃんと寝ろ」とかなんとか、しょっちゅう注意してくる。おじさんというよりもはやおじいさんだ。でも実は一番心配性で、台の具合をいちばんよく見ている。

三番は基本的に黙っている。でもたまにどすの利いた声で「……うるさい」と言う。そのたびに一番と二番が同時に黙る。三番が一番怖い。でもぼくは知っている。三番が一番優しいということを。

そして**投入口**だ。

台の上部、コインが入ってくる「正面玄関」を管理する彼は、毎回ドラマチックだ。大げさとも言う。コインが一枚入ってくるたびに、

「——ッ来たあああ!! 客人の御来訪ーーーっ!!!」

と叫ぶ。

うるさい。毎回うるさい。

でも彼なりの使命感があるのは知っているから、ぼくたちはわりと放置している。一番は「本日〇回目の御来訪」と几帳面にカウントするし、二番は「うるさい!」と怒鳴り返すし、三番は黙っている。それがいつもの喫茶ベルーガ2号機の朝だ。

古い遊技台の内部で、苔色のフェルトに傷だらけのコインが置かれ、奥に三つのリールと投入口が見える挿絵

そんな日常に、変化が訪れたのは、ある月曜日の朝のことだった。

ガコン、という音がホールに響いた。

何か重たいものが運ばれてくる振動が、フェルトを通じてじんじん伝わってくる。

「なんだなんだ?」二番がそわそわした。

「新入りだ」三番がぽつりと言った。

ぼくは内壁の隙間から、かろうじて外を覗いた。

隣の台が——変わっていた。

長い間、空きスペースだったそこに、ぴかぴかの台が鎮座していた。まぶしいくらいの光沢を放ち、赤と金のド派手な筐体に、でかでかと文字が書いてある。

「777ロマンス」

ふん。随分と景気のいい名前だな、と思った。

「うわー!! すごい、すごーい! ここってこんなに明るいんだ!!」

聞こえてきた声は、コロコロと弾むような声だった。

壁越しに、振動で伝わってくる。コイン同士は「コイン語」で話せる。台と台の間の薄い仕切りを通じた、ぽんこんこん、という振動の言葉だ。

「えっ、となりに誰かいる? ねえ、います? いますよね?」

ぼんこん、ぽこん。

「います? ねえねえ」

…………ぽん。

思わず返事をした。

「いる」

「わーっ! いた! はじめまして! あたし、777ロマンスの新入りコインです! よろしくおねがいしまーす!!」

元気だな、と思った。眩しいくらい元気だな、と思った。

と同時に、ぼくの古い傷が、なんだかむず痒いような気がした。

第2章

第二章 大当たりの日とひとめぼれの問題

自己紹介をしっかり聞かされた。

「ピカピカの新品です! 鋳造されてまだ半年! ぴかぴかでしょう? えっと、このホールに来たのは昨日で、最初にこの台に入れてもらったとき感動して! 回転の感覚が楽しくて! ね、あなたはここに長いんですか?」

「……長い」

「どのくらい?」

「よくわからない。でも長い」

「すごーい! じゃあいろんなことを見てきたんだ。いいな! あたし、まだ一回しか回ってないから何もわかんなくて」

「一回か」

「そう! 楽しかった〜。ドキドキして! 外れたけど!」

「……外れて、楽しかったのか」

「うん! あのハラハラ感が好きかもって思って!」

新品はすごいな、とぼくは思った。ぼくが最初に外れたとき、ふてくされてフェルトの端で三日間転がり続けた記憶がある。

「あなたはなんて名前?」

「名前はない」

「え! じゃあ……べる、って呼んでいいですか。喫茶ベルーガのべる」

べる。

「好きにしろ」

「わーい! よろしくね、べる!」

それが始まりだった。

彼女の名前はロマという呼び名に落ち着いた。彼女自身が「ロマ! 呼びやすいし可愛くない!?」と言って決めた。ぼくが決めたわけではない。でも悪くないと思った。

ちなみに「彼女」というのはぼくが勝手にそう思っているだけで、コインに性別はない。でも、あの声は彼女だ。そういうことにしている。

---

ロマは、とにかく賑やかだった。

「ねえねえべる、今日の人はどんな人だった?」

「中年の男。帽子をかぶっていた」

「帽子!! どんな帽子?」

「野球帽。青い」

「青! いいな! あたしのところはさっきすごく若い子が来たよ! なんかずっとスマホ見てて、台のことはあんまり見てなかった」

「……それは、寂しくないか?」

「え?」

「ちゃんと見てくれないのは、寂しくないか」

しばらく沈黙があった。

「……そっか。そういう気持ちになるんだね」

ロマの声が、少しだけ落ちついたトーンになった。

「べるはそういうこと、ちゃんと感じてるんだね」

「……長くいると、そうなる」

「うん。でも、スマホ、ちょっとだけこっちに向けてもらえたら嬉しかったな。どんな音楽聴いてるのかな、とか思って」

能天気なのかと思えば、ちゃんと自分なりの優しさがある。

ぼくはどんどん、ロマのことが好きになっていった。

「ねえべる、コーヒーって飲んだことある?」

「コイン同士が飲めるわけないだろ」

「だよね! でもあたし、飲んでみたいと思って。台のテーマがコーヒー屋さんだから、なんとなく」

「ぼくもそれは思ったことある」

「え! ほんとに!?」

「液晶でウェイターが注いでいる映像を何度も見ているから、なんとなく想像できる気がして」

「想像でいいんだよ! それでいい! べるってそういうこと考える人なんだ!」

人じゃないけどな、とぼくは思いながら、なぜか少し嬉しかった。

---

問題が起きたのは「大当たりの日」のことだった。

月に一度の「大当たりイベント」というやつで、ホール全体が景気よく騒々しくなる日だ。普段より多くの客が来て、ジャラジャラジャラジャラと大量のコインが飛び交う。台の中もてんてこ舞いだ。

その日の昼過ぎ、特大のサプライズが来た。

どすん、という重量感のある音がして——

「——ッ来たあああ!!!!!! コ、コ、コ、コインが、紙袋いっぱいのコインが——来たあああーーーっ!!!!!!!」

投入口が絶叫した。

いつも以上に叫んだ。全身全霊で叫んだ。

なぜなら、紙袋いっぱいのコインが一気に投入されたからだ。

ドバーーーッ。

「ちょ、ちょっ、ちょっと待って——!!!」

「あ"あ"あ"あ"あ"、ま、まだ整列できて——!!!」二番が絶叫した。

「……うるさい」三番がいつもと変わらぬ声で言った。でも回転が心なしか速くなった。

ざばざばざばっとコインが溢れ込んでくる。知らない顔のコインたちが大量に、ぐわんぐわんと流れ込んでくる。台の中がたちまち超満員だ。ぼくはフェルトの上でぎゅうぎゅう押されながら、端っこにしがみついた。

「べるーーー!! だいじょうぶーーー!!?」

壁の向こうからロマの声が飛んできた。

「だいじょうぶだ!! そっちは!?」

「777ロマンスもすごい人が来てる! あたしも今めちゃくちゃ混んでる!!」

「気をつけろよ!!」

「うん!! ありがとうーー!!」

コイン語で大声を出すのは異例だが、この状況ではしかたない。

コインたちが波のように揺れる中、ぼくはずっとロマのことを心配していた。新品のロマが、この大当たりの荒波にもまれて、傷つかないか。押し潰されないか。ピカピカの表面に、余計な傷がつかないか。

……あれ。

ぼくは気づいた。

なんでぼくは、こんなにロマのことを心配しているんだろう。

大当たりの喧騒がひとまず落ち着いたとき、ぼくはフェルトの上でしみじみと考えた。

——ぼくは、ロマのことが好きだ。

うん。

完全に、そうだ。

困った。

---

「二番」

しーんとした時間に、ぼくは声をかけた。

「なんだ!」

「コインが誰かを好きになることって、あるか?」

二番は即座に言った。「ない! コインにそんな感情は不要! 整列して、回転して、排出される! それだけだ!」

「……そうか」

「そうだ! 感情は乱れの元! 効率が落ちる! 一番、そう思わないか!」

「今日の回転数の合計が……」一番は計算中だった。

「三番!!」

「……」三番は黙っていた。

しばらくして、三番が静かに言った。

「……あるだろ」

「えっ」二番が固まった。

「コインにだって、あるだろ。そういうの」

「三番!!!!」

三番はそれきり黙った。

ぼくは少し、救われた気がした。

第3章

第三章 撤去のカウントダウン

変化は、突然やってきた。

ある朝、ホールの従業員が台の前に立った。手にはクリップボードがあって、何かをチェックしていた。台の壁には薄いところがあって、ぼくにはそこから外の会話がかろうじて聞こえる。

「——喫茶ベルーガ、そろそろ限界かね」

「ですね。かなり古いですし、稼働率も落ちてます。画面のちらつきも出てるって報告がありますし」

「来週の月曜に回収の業者を頼もう。それまでに最終稼働記録を——」

声が遠ざかった。

台の中が、しーんと静まりかえった。

「……聞こえたか」

ぼくは小さく言った。

「聞こえた」一番が言った。計算をやめていた。

「聞こえた」二番が言った。怒鳴るのをやめていた。

「……」三番は黙っていたが、それがすべてを語っていた。

来週の月曜。

つまり——七日間。

喫茶ベルーガ2号機には、あと七日しかない。

---

「べる?」

壁の向こうから、ロマの声がした。

「聞こえてたでしょ、さっきの声」

「……聞こえた」

「……」

ロマが黙るのは珍しかった。あんなに賑やかなのに、今日は静かだった。

「ねえ、べる。あたし、ちゃんとわかってなかったんだ。台が撤去されるってどういうことか」

「そうだな」

「べるはずっとここにいたんだよね。ここが終わったら……どうなるの?」

「ぼくたちも、どこかへ行く。たぶん」

「……どこへ?」

「わからない。でも、たぶんどこかへ行く」

コインはリサイクルされることもある。処分されることもある。ぼくにはその先が見えない。でも終わりがあることは知っている。ここでの時間が終わることは、知っている。

「ねえ、べる」

「うん」

「七日間、たくさんしゃべろ。ね?」

ぼくは少しだけ間を置いてから、答えた。

「……ああ」

「約束だよ」

「約束だ」

---

七日間は、あっという間だった。

それでいて、ひとつひとつの瞬間は、妙にゆっくりだった。

一日目。いつも通りの客が来た。ロマと、今日来た人の帽子の話をした。

二日目。大当たりではなかったが、そこそこ回った。ロマと「もし台の外に窓があったら何が見えるか」という話をした。「空が見えたらいいな」とロマは言い、ぼくは「ここは地下に近いから無理だろ」と言った。でも「そうだな、空があったらいいな」とも思った。

三日目。二番が珍しく怒鳴らなかった。かわりに、丁寧に回転数を数えていた。「今日は百三回転。よく頑張った」と、ぼくたちに向かって言った。いつもと違う声だった。

四日目。一番が今まで以上に細かく台の中の様子を報告してきた。「フェルトの右端が少しほつれている。でも今日も問題なく動いている」。几帳面な愛情表現だと、ぼくは思った。

五日目。投入口がいつもより一回多く叫んだ。理由はわからない。でもその一回が、なんだか特別な一回みたいだった。

六日目の夜、ぼくはフェルトの上で長いこと過去を思い出した。来ては去った客たち。大当たりの夜の喧騒。泣いていたあの人。嬉しそうに笑っていたあの子。全部が、この七日間と重なって、不思議と温かかった。

---

六日目の夜、ぼくは決めた。

明日が最後の日だ。

ロマに、伝えよう。

コイン同士が「好き」を伝えることに意味があるのかどうか、ぼくにはわからない。ロマとぼくは台が違う。これからどこへ行くかもわからない。もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。

それでも、伝えたかった。

ぼくは七日間、ロマのことを好きだった。

いや——もっと前から好きだった。初めて声を聞いたあの月曜日の朝から、ずっと。

「……三番」

夜、ぼくは三番に静かに声をかけた。

「……なんだ」

「好きな人に、好きって伝えることって、できるか?」

長い沈黙があった。

それから三番が言った。

「……できる」

「どうやって?」

「……言えばいい」

「そんなことか」

「そんなことだ」

三番はそれきり黙った。

ぼくはフェルトの上で、一晩中、言葉を練習した。

第4章

第四章 最後の一回転

最終日の朝が来た。

「——ッ来たあああ!!!!! 本日最後の、そして最高の御来訪ーーーっ!!!!」

投入口が叫んだ。いつもより一段階大きい声で叫んだ。もしかしたら本人もわかっているのかもしれない、今日が最後だと。

朝イチの客が来た。コインが一枚、投入口を通った。リールが回り始めた。

一番が静かに「一」と数えた。

二番が「よし、回れ」と低く言った。

三番は黙って、でもいつもより力強く回転した。

ぼくは壁に近づいた。

「ロマ」

「べる! おはよう! 今日ね、もうすごく緊張してる。べるの最後の日だから」

「うん。ぼくも緊張してる」

「あのさ、べる。あたし、昨日の夜から考えてたんだ」

「うん」

「言いたいことが、あって」

「……言えよ」

「……えっ、そういう感じで言う?」

「ごめん。言ってくれ」

「……べる、あのね」

「うん」

「あたし、べるのこと大好きだよ。七日間で一番好きになったコインだよ。というか、初めてちゃんと好きになったコインだよ」

ぼくは固まった。

「え」

「え? あ、ごめん、そういうの言っちゃいけなかった?」

「い、いや。そうじゃなくて」

「あたし、全部言っちゃうタイプで。好きなものは好きって言わないと気持ち悪くて。だから言ったけど、困らせた?」

「困らせてない」

「ほんと?」

「ほんとだ。ぼくも——」

ぼくは一度「息」を吸った。コインに息はないが、でもそういう気分で、吸った。

「ぼくも、好きだ。ロマのことが。ずっと、好きだった」

しーーーん、とした。

一瞬だけ、台の中が、ホールが、世界全体が止まったみたいだった。

それから、

「わーーーーーーーーーーっ!!!!!!」

ロマが叫んだ。

「やった! やったやったやったやった! べるが好きって言ってくれた!!!」

「声が大きい」

「だって嬉しいもん!! ね、聞いた? 聞いた、三番? 聞いてる?」

三番は黙っていた。

でもぼくには聞こえた。

三番がごく小さく「……よかった」と言ったのが。

「聞いた」一番が言った。「なお、今日の回転数は現在十七回。感動的な場面においても回転数は正確に記録される」

「うるさい!!」二番が怒鳴った。でもその声は、なんだか少し嬉しそうだった。

---

それからの時間は、静かだった。

客が来て、コインが入って、リールが回る。その繰り返し。

でも台の中は、どこか和やかだった。二番は怒鳴らなかった。一番は回転数を数えながら「今日の回転は、よく揃っている」と言った。三番は黙っていたが、回転のたびにリズムが整っていた。

「ねえ、べる」

「うん」

「あたしたち、次どこへ行っても、また会えると思う?」

ぼくはしばらく考えた。

わからない。本当にわからない。

でも——

「会えると思う」

「そう?」

「ぼくたちはコインだ。どこへ行っても、また誰かの手に渡る。また台に入れられる。また回転する。またどこかで、会うかもしれない」

「そっか」

「そっか、じゃないだろ。もう少し喜べ」

「えっ! わーい! また会おうね、べる!!!」

「……ああ。また会おう、ロマ」

---

最後の回転が来た。

夕方のことだった。常連のおじさんだった。

ぼくはこのおじさんを知っていた。毎週来る人だ。帽子は被らない。飲み物を一本買って、台の前に置いてから座る。コインを一枚一枚、大事に投入する。急がない。台のことを、ちゃんと見てくれる。

その日もそうだった。

コインが一枚、投入口に入ってきた。

「——御来訪」

投入口が、珍しく静かに言った。ドラマチックじゃなかった。でもその分、重かった。

リールが回り始めた。

ざーーーっと回る。回る。回る。

チェリー。ベル。バー。

……止まった。

当たりではなかった。

でも、おじさんは長いこと台を見ていた。液晶がちらつくのを見ていた。シロイルカのイラストを見ていた。老紳士のウェイターがコーヒーを注ぐ最後の演出を、黙って見ていた。

それからゆっくりと立ち上がって——台をぽん、と一度叩いた。

優しく。

「ありがとう」とでも言うように。

その振動が、台の内部まで伝わってきた。

ぽん、と。

フェルトを通じて、温かく。

ぼくはその振動を、全身で受け取った。

——ありがとう。ぼくも、ありがとう。

「べる」

ロマの声がした。

「聞こえた?」

「聞こえた」

「よかったね」

「うん。よかった」

「……ねえ、べる。好きだよ」

「……ぼくも好きだ、ロマ」

夕方、業者が来た。

フォークリフトのような音が聞こえ、台が揺れ、ゆっくりと運ばれていく。

フェルトのくたびれた感触が、最後にぼくの背中をそっと押した。

薄い毛布みたいに、でも確かな温もりで。

喫茶ベルーガ2号機の最後の一回転は、当たりではなかった。

でも——ぼくにとっては、生涯最大の大当たりだった。

---

*おわり*

After Reading

読後の余韻に、次の一編を。

ほんすこ編集部レビュー

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