第一章 案件、発生
朝の九時十分。
駅から徒歩三分の路地に、白い看板が立っていた。
〈CAFÉ NIJIMI〉
昨日まではシャッターが降りていた場所だ。
ミコは立ち止まった。いや、正確には、立ち止まらざるを得なかった。
木の扉。磨りガラス。中から漏れてくるコーヒーの匂い。
カウンターらしき影と、ランプの黄色い光。
ガラス越しに人が二、三人いるのが見える。常連みたいな雰囲気の人たちが、静かに本を読んでいる。
いい店だ、と本能が言った。
絶対に入れない、と常識が答えた。
齋藤ミコ、二十八歳。
恐れるものリストは、エレベーター、電話、初めての店、知らない人との会話、突然の宅配便、病院の受付、美容室のシャンプー台、それからクレープ屋の「ご注文は?」。
でも頭の中だけは、うるさかった。
*
「緊急ッ! 新案件ですッ!」
頭の中の本部に、声が響いた。
薄暗い部屋。パイプ椅子が五脚。正面には大きなホワイトボード。
そしてそこには五人の小人たちが、それぞれのパイプ椅子に座っていた。
立ち上がったのは、シンパイだった。
額に青筋を立て、ホワイトボードのマーカーを握りしめている。
「新規カフェへの単独突入を試みようとしています! 最悪の事態ッ! 最悪のッ!」
マーカーが走った。
〈初めての店→知らない店員→メニューが読めない→注文間違える→指摘される→泣く→ニュースになる〉
最後の一行が謎だったが、誰も突っ込まなかった。シンパイのホワイトボードにはいつもそういうことが書いてあった。
「まあ、大丈夫じゃないですか?」
ダイジョブが手を挙げた。ふくよかな体に、いつも薄い笑みを浮かべている。
「コーヒーはコーヒーですよ。注文するだけですよ。たぶん、きっと、たぶん」
「たぶん×2はたぶん以下の確信値ですよ!」とシンパイが叫んだ。「却下! 却下却下却下!」
「いや待って、みんな聞いてください」
キオクが静かに立ち上がった。
眼鏡をかけた、小柄な小人だ。胸に古いリモコンを抱えている。
「関連記録を再生します」
カチ、とリモコンを押した。
全員が同時に固まった。
——中学二年生。給食の時間。牛乳が飲めないと言えなくて、無理やり飲んで盛大に吐いたあの記憶。担任が「齋藤、大丈夫か」と言った瞬間の、教室中の視線。
「あーあれか……」
全員の口から、ほぼ同時に声が出た。
本部が五秒間、完全に停止した。
ぐうぅ。
一人だけ違う音を出したのが、ハラヘッタだった。
太いお腹をさすりながら、天井を見上げている。
「カフェって、ケーキとかあるんですかね。シフォンケーキとか。モンブランとか」
「今それどころじゃないでしょ!」とシンパイが叫んだ。
「そうですね……」と、端のパイプ椅子でネムイが言った。
目を細めて、すでに半分眠っている。「……まあ、なんとか……」
「ネムイさん案件の深刻さわかってますか!?」
「……うん……」
そのまま、ネムイは静かに眠りに落ちた。
シンパイがホワイトボードに「本日の作戦:入店禁止」と書いた。
赤のマーカーで三重に囲んだ。
ぐうぅ。
ハラヘッタのお腹が、もう一度鳴った。
*
外の世界では、ミコがまだ立ち止まっていた。
右手がポケットの中に入って、お守りに触れていた。
去年の春に買った、駅前の神社のお守りだ。
縁結びでも学業でもなく「家内安全」というなんとなくのやつ。
特に信じているわけでもないが、ポケットに入れっぱなしにしていると落ち着く。
「……あとで」
ミコはつぶやいて、歩き出した。
その日の仕事は在宅だった。
カフェは、また今度。
本部では、シンパイが「撤退成功!!」とガッツポーズをしていた。
ダイジョブだけが、一人で手を叩いていた。いつものことだ。


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