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あったかい日常

ドアひとつぶんの全員会議

怖いまま、ドアだけ開けてみる。

あらすじ

初めての店に入るのが苦手な齋藤ミコは、気になるカフェの前で何度も足を止める。頭の中ではシンパイ、ダイジョブ、キオク、ハラヘッタ、ネムイたちが全員会議を開き、入店をめぐって大騒ぎ。過去の失敗や不安に揺れながらも、ミコはついに扉の取っ手に手を伸ばす。

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第1章

第一章 案件、発生

朝の九時十分。
駅から徒歩三分の路地に、白い看板が立っていた。

〈CAFÉ NIJIMI〉

昨日まではシャッターが降りていた場所だ。
ミコは立ち止まった。いや、正確には、立ち止まらざるを得なかった。

木の扉。磨りガラス。中から漏れてくるコーヒーの匂い。
カウンターらしき影と、ランプの黄色い光。
ガラス越しに人が二、三人いるのが見える。常連みたいな雰囲気の人たちが、静かに本を読んでいる。

いい店だ、と本能が言った。
絶対に入れない、と常識が答えた。

齋藤ミコ、二十八歳。
恐れるものリストは、エレベーター、電話、初めての店、知らない人との会話、突然の宅配便、病院の受付、美容室のシャンプー台、それからクレープ屋の「ご注文は?」。
でも頭の中だけは、うるさかった。

「緊急ッ! 新案件ですッ!」

頭の中の本部に、声が響いた。
薄暗い部屋。パイプ椅子が五脚。正面には大きなホワイトボード。
そしてそこには五人の小人たちが、それぞれのパイプ椅子に座っていた。

立ち上がったのは、シンパイだった。
額に青筋を立て、ホワイトボードのマーカーを握りしめている。

「新規カフェへの単独突入を試みようとしています! 最悪の事態ッ! 最悪のッ!」

マーカーが走った。

〈初めての店→知らない店員→メニューが読めない→注文間違える→指摘される→泣く→ニュースになる〉

最後の一行が謎だったが、誰も突っ込まなかった。シンパイのホワイトボードにはいつもそういうことが書いてあった。

「まあ、大丈夫じゃないですか?」

ダイジョブが手を挙げた。ふくよかな体に、いつも薄い笑みを浮かべている。

「コーヒーはコーヒーですよ。注文するだけですよ。たぶん、きっと、たぶん」

「たぶん×2はたぶん以下の確信値ですよ!」とシンパイが叫んだ。「却下! 却下却下却下!」

「いや待って、みんな聞いてください」

キオクが静かに立ち上がった。
眼鏡をかけた、小柄な小人だ。胸に古いリモコンを抱えている。

「関連記録を再生します」

カチ、とリモコンを押した。

全員が同時に固まった。

——中学二年生。給食の時間。牛乳が飲めないと言えなくて、無理やり飲んで盛大に吐いたあの記憶。担任が「齋藤、大丈夫か」と言った瞬間の、教室中の視線。

「あーあれか……」

全員の口から、ほぼ同時に声が出た。
本部が五秒間、完全に停止した。

ぐうぅ。

一人だけ違う音を出したのが、ハラヘッタだった。
太いお腹をさすりながら、天井を見上げている。

「カフェって、ケーキとかあるんですかね。シフォンケーキとか。モンブランとか」

「今それどころじゃないでしょ!」とシンパイが叫んだ。

「そうですね……」と、端のパイプ椅子でネムイが言った。
目を細めて、すでに半分眠っている。「……まあ、なんとか……」

「ネムイさん案件の深刻さわかってますか!?」

「……うん……」

そのまま、ネムイは静かに眠りに落ちた。

シンパイがホワイトボードに「本日の作戦:入店禁止」と書いた。
赤のマーカーで三重に囲んだ。

ぐうぅ。

ハラヘッタのお腹が、もう一度鳴った。

外の世界では、ミコがまだ立ち止まっていた。
右手がポケットの中に入って、お守りに触れていた。

去年の春に買った、駅前の神社のお守りだ。
縁結びでも学業でもなく「家内安全」というなんとなくのやつ。
特に信じているわけでもないが、ポケットに入れっぱなしにしていると落ち着く。

「……あとで」

ミコはつぶやいて、歩き出した。

その日の仕事は在宅だった。
カフェは、また今度。

本部では、シンパイが「撤退成功!!」とガッツポーズをしていた。
ダイジョブだけが、一人で手を叩いていた。いつものことだ。

第2章

第二章 偵察および前哨戦

三日後の土曜日。
ミコは午前中から自分に言い聞かせていた。

今日こそ、CAFÉ NIJIMIに入る。

作戦を立てた。まず外を通りながら様子を見る。次に、メニューが外から確認できるか確かめる。そして、お客さんの雰囲気を把握する。それから、もし気が向いたら、入る。

「入る」が最後に来ているのがミソだった。

本部では、早朝から緊急会議が開かれていた。

「諸君! 本日が正念場です!」

シンパイが新しいホワイトボードを引っ張り出してきた(昨日のが真っ黒になったので新調した)。

〈作戦コード:入店阻止〉

「まずフェーズ1。通過時に心拍数を上げる。フェーズ2。店の前で足を止めさせない。フェーズ3。万が一立ち止まった場合は——」

「コーヒーって何種類あるんですかね」

「ハラヘッタさん!」

「エスプレッソとかラテとかカプチーノとか。ドリップコーヒーとかハンドドリップとか、あと——」

「今は食の話じゃないんですよッ! フェーズ3ですッ!」

「……眠い」とネムイが言った。

「だから今は! フェーズ! 三!」

キオクが静かに手を挙げた。

「参考映像を流しましょうか。中学の陸上大会でバトンを落としたやつ」

「いや今それは関係——」

カチ。

全員が固まった。

——中学三年生。雨の運動会。バトンリレー。ミコの手からバトンがすべって、グラウンドを転がった。静まり返ったトラック。先生の「拾って!」という声。

「あーあれか……」

五秒間、静止。

ぐうぅ。

「すみません本当に今日はシフォンケーキが食べたくて」

「ハラヘッタさんッ!」

ミコはお守りを握りしめながら、路地に足を踏み入れた。

白い看板。木の扉。
今日は、張り紙がしてあった。

〈本日のランチ:クリームパスタ / デザートセット+200円〉

ミコの目が止まった。

(デザートセット)

お腹が、ぐうっと鳴った。
——外の世界でも、内側でも、ほぼ同時に。

扉まで、あと四メートル。
ミコは立ち止まった。

立ち止まって、扉を見た。
人が入っていく場面を、頭の中でシミュレートした。

(どうぞ、と言われる。笑顔で。そしてわたしは何も言えなくて、そのまま立ち尽くして、後ろに人が並んで、焦って「やっぱりいいです」と言って走って帰る)

本部では〈最悪シナリオ確定!〉とシンパイが書いていた。

(でも……コーヒーが飲みたい)

「撤退!」

シンパイの声に、本部全員が頷いた。

ダイジョブだけが「今日こそいけますって!」と叫んだが、誰も聞いていなかった。

ミコはポケットのお守りを握りなおして、カフェの前を通り過ぎた。
三歩進んで、振り返った。
扉はまだそこにあった。

(また今度)

ミコは歩き出した。

本部では、シンパイが「完璧な撤退でした!」と両手を挙げていた。
ダイジョブは、一人で首を横に振っていた。

第3章

第三章 決戦前夜と、当日の混乱

その週の水曜日。
ミコは午後から外出する用事があった。

市役所の手続きに、郵便局に、そしてドラッグストア。
三箇所まわれば、帰り道にCAFÉ NIJIMIの前を通る。

「帰り道に通る」ということは、つまり、「入る機会がある」ということだ。

ミコはそれを、意識しないようにしていた。
でも、意識しないようにすること自体が、意識することで——

「うるさい頭だ」と、ミコはつぶやいた。

本部では、事前会議が始まっていた。

「今日は危険度が高い! 外出ルートがカフェを経由しています!」

シンパイがホワイトボードに赤いラインでルートを書いた。
どう見ても市街地の地図ではなく、なぜか立体迷路みたいになっていたが、全員が真剣な顔で頷いた。

「帰り道に通る可能性:九十七パーセント。入店しようとする可能性:六十二パーセント。実際に入る可能性——」

「ゼロ!」とハラヘッタが手を挙げた。

「なんで断言してるんですか、あなたは」

「でも今日は市役所でしょ。市役所の後は疲れるんですよねー。帰ってあんまん食べたい」

「今は食の話じゃ——!」

「あんまん、いいですね」とダイジョブがのんびり言った。「だったら今日は疲れてるからカフェはやめておいて、また今度元気なときに行けばいいんじゃないですかねー」

全員が、静止した。

「……それ、合理的じゃないですか」とキオクが言った。

「でしょ?」とダイジョブが誇らしそうに胸を張った。

「……ただし」とシンパイが咳払いをした。「それは逃げの理論です。採用しません。今日を逃せば来週も逃げます。再来週も。そして気づけば三年後にそのカフェは閉店していて、ミコは後悔したまま四十代を迎えます」

「ちょっと飛躍しすぎじゃないですか」とダイジョブが言った。

「三十歳までに何かに挑戦しないと一生できません。これは心理学的事実です」

「そんな事実ありましたっけ?」

「あります。わたしが今作りました」

「それは事実ではないです」

「感情論は却下! そこへキオク、お願いします」

キオクが静かに立ち上がった。

「今回の関連映像が二本あります。一本目。二十二歳、アルバイトの初日、注文取りに行って伝票に書けなくて涙目になったやつ」

「いや今は——」

カチ。

「あーあれか……」

五秒間、停止。

「二本目。去年の春、新しい美容室に予約の電話をして、緊張で噛みまくって最終的に自分の名前を間違えたやつ」

「それは聞かなくても——」

カチ。

「あーあれか……」

今度は七秒間、停止した。

シンパイがゆっくり口を開いた。

「……改めて、入店阻止が正しいと確認できましたね」

「ちょっと待ってください」

ダイジョブが、珍しく声を上げた。
いつもより少しだけ、真剣な顔をしていた。

「毎回そうやって嫌な記憶を引っ張り出してくるから、前に進めないんじゃないですか?」

「感情論は却下です」

「感情論じゃないです。事実論です。このままいくとミコは——」

「今日のことだけを考えてください!」

「今日のことを考えると、入ったほうがいい、ってわたしは言ってるんです!」

初めてだった。ダイジョブが声を荒げたのは。

本部が、静まり返った。

ぐうぅ。

「……あんまん食べたい」とハラヘッタが言った。

「……」

「……すみません」

「とにかく」とシンパイがホワイトボードを書き直した。「本日の作戦:臨機応変。もし店の前に人が並んでいたら即撤退。もし中が見えなかったら即撤退。もし——」

「全部撤退じゃないですか」

「臨機応変です」

ネムイがいびきをかいていた。

市役所の手続きは、三十分で終わった。
郵便局は、十分で終わった。
ドラッグストアは、二十分かけてシャンプーを悩んで、結局いつものを買った。

ミコは帰り道に立った。

右を向けば、回り道になるが、カフェを通らない道。
左を向けば、CAFÉ NIJIMIの前を通る道。

お守りが、ポケットの中で重たかった。
いつもと同じ重さのはずなのに。

ミコは左に曲がった。

本部に、緊急アラートが鳴り響いた。

「左折ッ!! 左折を確認ッ!!」

シンパイがホワイトボードを蹴飛ばした(本人はそのつもりだったが、スネを強打した)。

「い、いきますよ! 今日こそ!」とダイジョブが跳び上がった。

「冷静に! まだ近づいていません!」

五人が(四人が)一斉にモニターを覗き込んだ。

ミコの視界が揺れている。
路地。白い看板。木の扉。

「……近いッ! 距離三十メートル! 心拍数上昇中!」

「大丈夫大丈夫!」とダイジョブが言った。

「根拠は!?」

「なんとなく!」

「却下!!」

「二十メートル!」

キオクがリモコンを握りしめた。「今、一番最悪の映像を流しましょうか——」

「やめてください!」とダイジョブが飛びついた。「今は流さないでください!」

「でも標準手順は——」

「今だけは! 今だけはやめてください!」

「……十メートル!」

ぐうぅ、とハラヘッタのお腹が鳴った。

「コーヒーにロールケーキとかあったらいいな」

誰も聞いていなかった。

「五メートル! シンパイさん、指示を!」

シンパイがホワイトボードに向かった。
マーカーを持った。
なにか書こうとした。

書けなかった。

「……シンパイさん?」

「……」

「シンパイさんッ!?」

「……うるさい! わかってます! わかってますよ!」

シンパイが振り返った。顔が、少し赤かった。

「……入りたいんでしょ。ミコが」

「え」

「三日前も、先週も、ずっとあの扉を見てるじゃないですか。わたしだってわかりますよ。でも——でも万が一——」

「扉の前!」とキオクが叫んだ。

全員が止まった。

小さな路地のカフェの木の扉の前で、お守りを握りながら立ち止まる女性
第4章

第四章 扉の前で

ミコは、扉の前に立っていた。

距離は一メートルもない。
木の扉に手を伸ばせば、届く。

でも、手が動かなかった。

中の気配が伝わってくる。
音楽が、低く流れている。
誰かが笑う声が、ガラス越しに聞こえた。

(楽しそうだ)

ミコはポケットのお守りを取り出した。
紺色の布。擦れて少し白っぽくなっている。
「家内安全」という文字が、かすれていた。

(家内安全って、わたし一人暮らしだけど)

なんとなく、おかしかった。
誰に言うわけでもなく、一人でちょっとだけ笑った。

本部は、静止していた。

全員がモニターを見ている。
誰も喋らない。

シンパイがホワイトボードの前に立ったまま、マーカーを持ったまま、何も書けずにいた。

「……シンパイさん」とダイジョブが小声で言った。「今、なんも書かなくていいですよ」

「……」

「ここはもう、ミコが決めることですから」

「でも」とシンパイが言った。声が、かすかに震えていた。「もし傷ついたら。もし恥ずかしい目に遭ったら。もし、また——」

「それはそのときです」

「そのときじゃ遅い! 傷ついてからじゃ——」

「シンパイさん」

キオクが静かに近づいてきた。
リモコンを、胸のポケットにしまっていた。

「……今日は、映像を流しません」

「え」

「関連映像は確かにあります。何十本も。でも——」

キオクが一息ついた。

「映像にない未来も、あります」

シンパイが黙った。

ぐうぅ。

「……カフェのコーヒー、きっとおいしいですよ」

ハラヘッタが、丸い顔でにっこりした。

本部が、静かになった。

そのとき。

「……ん」

端のパイプ椅子から、声が聞こえた。

全員が振り向いた。

ネムイが、目を開けていた。
ぼんやりした顔で、一度まばたきして、モニターを見て。

それからゆっくり言った。

「……ドア、開けるだけでいいんじゃないですか」

「え?」

「入らなくていいです。ドアだけ、開けてみる。それだけ」

「……」

「開けてみて、怖かったら閉めればいい。それだけのことじゃないですか」

ネムイは言い終わると、また目を細めた。
そしてすぐに、寝た。

本部が、静まり返った。

シンパイがホワイトボードを見た。
白紙のホワイトボードを。

それからマーカーを、棚に置いた。

「……採決を取ります」

いつもより、静かな声で。

「ドアを開けることに——賛成の者」

ダイジョブが、真っ先に手を挙げた。
それからハラヘッタが、もぞもぞと手を挙げた。
キオクが、静かに手を挙げた。
ネムイは、寝たまま手が上がっていた。なぜかは謎だった。

シンパイが、深呼吸をした。

「……全員一致で」

ゆっくり、自分の手を挙げた。

「可決です」

ミコの手が、動いた。

お守りをポケットに戻して。
木の扉に、手を伸ばして。
取っ手を、握った。

冷たかった。金属の冷たさが、掌に伝わってくる。

(怖い)

(怖いけど)

ミコは、引いた。

扉が、開いた。

ほんの少し。二十センチくらい。

コーヒーの匂いが、流れてきた。
音楽が、少し大きく聞こえた。
暖かい空気が、ミコの顔に触れた。

(あ)

店の中を、ちらっと見た。
カウンターに、若い店員さんが一人いた。
ミコと目が合った。

店員さんが、言った。

「いらっしゃいませ」

それだけだった。
怒ってもいない。特別に笑いかけてもいない。
ただごく自然に、「いらっしゃいませ」と言っただけだった。

ミコの心臓が、どきどきしていた。

足が、一歩、踏み出した。

それから、もう一歩。

気がついたら、ミコは店の中にいた。

本部では、誰も喋っていなかった。

シンパイは、ホワイトボードの前に立ったまま、目を細めていた。
ダイジョブは、両手を顔に当てていた。泣いているのか笑っているのか、よくわからなかった。
ハラヘッタは「やったー! ケーキ! ケーキ!」と小声で拳を握っていた。
キオクは、リモコンを胸に抱えて、ただ頷いていた。
ネムイは、やっぱり寝ていた。

シンパイがホワイトボードを手に取った。
マーカーを手に取った。

そして書いた。

〈本日の成果:ドアを開けた〉

それだけ書いて、マーカーを置いた。
椅子を引いて、パイプ椅子に座った。
古いパイプ椅子が、ギィ、と鳴いた。

「……まあ」

シンパイがつぶやいた。

「今日のところは、よしとしましょう」

ミコは、窓際の席に座った。

メニューを開いた。
コーヒーの種類が、ちゃんと書いてあった。
写真付きで。値段も。

(全部読める)

当たり前のことが、なんだかちょっとおかしかった。

店員さんが来た。
ミコは一回深呼吸して、言った。

「ブレンドコーヒーを、ひとつ」

「かしこまりました」

それだけだった。

ミコは窓の外を見た。
路地の白い看板が、外から見えた。
さっきまで自分が立っていた場所が。

お守りをポケットの中で握ると、今日はなんとなく、軽かった。

コーヒーが来るまでの間、ミコはただ、音楽を聴いていた。

本部では、シンパイが使い古されたパイプ椅子を軋ませながら、ホワイトボードに何かを書き始めていた。

〈明日の懸念事項:コーヒーが熱すぎた場合の対応——〉

ダイジョブが、やれやれと首を振った。

「まあ、大丈夫ですよ」

今日だけは、誰も却下しなかった。

— 了 —

After Reading

読後の余韻に、次の一編を。

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