診察室は、思ったより小さかった。
白い壁。白いカーテン。
机の向こうに先生が座っていた。
六十代くらいの、白衣のおじさん。
メガネをかけていて、穏やかな顔をしていた。
「はい、齋藤さんね。えー、咳が三週間ですか」
「は、はい」
「うん、三週間はちょっと長いね。ほかには? のどの違和感があるって書いてくれてたね」
「は、はい」
先生が、聴診器を持った。
「ちょっと聴かせてもらいますね」
背中に、聴診器の丸い部分が当たった。
冷たかった。
「息を吸って、はい、ゆっくり吐いて」
ミコは言われた通りにした。
「うん、うん。もう一回」
もう一回した。
「はい、いいですよ」
先生が戻った。
「他に気になるところはありますか?」
*
本部、白紙。
「他に気になるところ」とシンパイが繰り返した。「……あります。あります、あります、あります」
「何がありますか?」とダイジョブが言った。
「最近、なんか体がだるい気がするとか、夜中に起きることがあるとか、なんとなく食欲が——」
「全部「なんとなく」じゃないですか」
「だからこそ伝えるべきでは!?」
「「なんとなく体がだるいです」は、全人類に該当するのでは?」
「……でも言ったほうが——」
「先生に「それは関係ないですよ」って言われたらどうしますか?」
「……傷つきます」
「傷つきますね」
「傷つくのは困ります!!」
「だったら——」
「でも言わないと不安です!!!」
「……」
「言う! 言いますが! 何から!? どういう順番で!?」
「シンパイさん落ち着いてください」とキオクが言った。「今、先生はまだ待っています。今答えを出せる?」
「……出せない」
「だったら「大丈夫です」でいいです」
「大丈夫じゃないかもしれない!」
「でも「大丈夫です」と言ったあとで何か思い出したら、「あ、一つだけ」って言えばいい」
「……そんなこと言えます?」
「言えます。先生は急いでないです」
「……」
ぐうぅ。
「……先生が穏やかな顔をしていてよかったですね」とハラヘッタが言った。
「今は関係ない!」
「怖い顔の先生だったらどうなっていたかと思って」
「今は関係ない!!」
「ネムイさん!!」
全員がネムイを見た。
「……ちゃんと伝えろ」
ネムイが、目を開けずに言った。
全員が止まった。
「え」
「……ちゃんと伝えろ。先生は、ミコの代わりに体の中を見られない。言葉だけが頼りだ。全部じゃなくていい。一個だけ、ちゃんと言え」
ネムイが、また目を閉じた。
本部が、静まり返った。
「……」とシンパイが言った。
「……一個だけ」とダイジョブが繰り返した。
「……夜中に起きることがある、を言いましょう」とキオクが静かに言った。「それは客観的な事実です。なんとなくじゃない」
「……採決します」
シンパイが深呼吸した。
「「夜中に咳で起きることがある」と伝えることに——賛成の者」
全員の手が、上がった。
ネムイの手も、寝たまま、上がった。
*
「……あの」
ミコの口が、動いた。
「はい?」と先生が顔を上げた。
「夜中に、咳で目が覚めることが、何回かあって……」
「そう! それは大事ね」と先生が言った。怒っていなかった。むしろ少し前のめりになった。「それはいつ頃から?」
「え、と……二週間くらい前から、です」
「うん、うん。そうか。」
先生がカルテに何かを書いた。
「じゃあレントゲン撮りましょうか。念のため」
「……はい」
「たぶん大丈夫だと思うけどね、ちょっと確認しましょう」
*
レントゲンを撮った。
廊下で待った。
また診察室に呼ばれた。
「問題ないですよ。気管支炎でしょうね、軽いやつ。咳止めと気管支を広げるお薬出しますから」
「……よかった」
また思わず声に出た。
先生が「うん、たいしたことないからね」と言って、処方箋を書いた。
「お薬は飲めますか? 錠剤で大丈夫?」
*
本部、緊急停止。
「……錠剤」とシンパイが言った。
「……苦手」とダイジョブが言った。珍しく、小声で。
「……知ってます」とキオクが言った。「四年前、カプセル薬を飲もうとして喉に引っかかって大変だった記憶、持ってます」
「……今は流しますか?」
「……今は流しません。でも、苦手なのは事実です」
シンパイが深呼吸した。
「……言います?」
「言えます?」とダイジョブが聞いた。
「……言えない、かもしれない」
「……言えなかったら?」
「……苦手な錠剤を飲み続けることになります」
全員が黙った。
ぐうぅ。
「……粉薬ってありますよね、粉の」とハラヘッタが言った。「粉なら飲めますかね」
「……ハラヘッタさん」
「なんですか」
「……今、いいことを言いましたか?」
「言いましたか?」
「……粉薬があるかどうか、聞けますよね。「錠剤が少し苦手なんですが」って」
「言えますよ」とダイジョブが言った。
「……難しいですか」
「「少し苦手」って言えば、先生は選択肢を出してくれますよ。きっと」
「根拠は?」
「なんとなく!」
「……今日だけ、採用します」
*
「あの」
「うん?」と先生が顔を上げた。
「錠剤が、少し……苦手で……」
「あ、そう! じゃあ粉にしましょうか」
先生が、あっさり言った。
全然困った顔をしていなかった。
「は、い……」
「最近は粉のほうが飲みやすい人も多いからね。はい、じゃあこれで」
処方箋が書き直された。
ミコは頭を下げて、診察室を出た。
本部では、シンパイが「言えた……! また言えた……!」と頭を抱えていた。
「大丈夫でしたよ」とダイジョブが言った。
「大丈夫でした……ね……」
「先生もプロだから、患者さんのいろんな事情に慣れてますよ」
「……さっきそれ言ったら「根拠は?」って言いましたよ」
「今は言いません」
「……なぜですか」
「なんとなく」
「……」
シンパイがホワイトボードに書いた。
〈錠剤が苦手:申告成功〉
それから少し考えて、赤で三回、丸をつけた。
*
薬局は、クリニックの隣にあった。
処方箋を出して、番号札を受け取って、また待った。
「三番の方」と呼ばれた。
番号札を持って、カウンターへ行った。
薬剤師さんが、丁寧に説明してくれた。
「こちらが咳止めで、一日三回、食後にお飲みください。こちらが気管支の——」
(一日三回食後)
(それはわかった)
(でも「食後」って、食べてすぐですか? 三十分後ですか? 一時間後ですか?)
(それを聞いていいですか?)
(聞いたら「そのくらい常識でしょ」と思われますか?)
(思われませんか?)
(でも飲み方が違ったら効き目が変わりますか?)
(変わりますよね、たぶん)
(聞くべきですか)
(でも——)
*
本部、大混乱。
「食後! 「食後」とはいつか!!」
シンパイがホワイトボードに書いた。
〈「食後」の定義〉
・食べた直後?
・食べてから30分?
・食べてから1時間?
「重要案件です!! 薬の効き目に関わります!!」
「聞けばいいじゃないですか」とダイジョブが言った。
「聞けます? 薬剤師さんに? 「食後ってすぐですか」って?」
「聞けますよ、普通に」
「普通は知ってる前提で話してませんか!?」
「知らなくて当然ですよ、そんなの」
「でも「そんなことも知らないんですか」って顔をされたら——」
「されませんよ」
「されたら——」
「されません」
「でも——」
「ッ——」とダイジョブが、珍しく言いかけた。
「……聞いてもいいですよ」とキオクが静かに割り込んだ。「薬剤師さんの仕事に、そういう質問への回答も含まれます。聞いて変な顔をされたことは、過去の映像にも一度も出てきません」
シンパイが止まった。
「……本当に?」
「映像には出てきません。あなたが怖がるほど、現実に変な顔をされたことはないはずです」
「……」
「一回だけ、聞いてみてください」
ぐうぅ。
「……わたし、粉薬って甘い味のことありますよね」とハラヘッタが言った。「ぶどう味とか」
「今は関係ない!!」
「でも楽しみじゃないですか、ちょっと」
「楽しみじゃないです!!」
「……夜ご飯はなんにしますかね」
「今は関係ない!!!」
*
「——何かわからないことはありますか?」
薬剤師さんが言った。
ミコは、一秒間、固まった。
(聞く)
(食後ってすぐですか、て)
(聞く)
「あの……食後って、食べてすぐですか? それとも、少し時間が経ってから……」
「あー、基本的には食べてすぐで大丈夫ですよ! 食事中でも全然いいです。胃に何か入っていれば」
「あ……そうなんですね」
「はい。忘れないうちに飲んじゃってください」
薬剤師さんは、全然変な顔をしなかった。
ミコは「ありがとうございます」と言って、袋を受け取った。
本部では、シンパイが「聞けた……! 聞けた……!」と壁に手をついていた。
「大丈夫でしたよ」とダイジョブが言った。
「大丈夫でした……また……」
「毎回そう言うじゃないですか」
「毎回本当に心配なんです」
「でも毎回大丈夫じゃないですか」
「……そうですね」
「今日は何回「大丈夫でした」って言いましたか」
「……数えていません」
「結構な回数ですよ」
「……」
シンパイが、ホワイトボードに向かった。
〈食後の定義:解決〉
と書いた。
それから少し考えて、書き足した。
〈聞けた〉
短い言葉だったが、本部では誰も笑わなかった。

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