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あったかい日常

三週間目の、白い待合室

病院に行くだけで、今日は大勝利。

あらすじ

三週間続く咳を不安に思いながらも、内科の予約を入れた齋藤ミコ。受付、問診票、名前の訂正、診察、薬局での質問、そしてコンビニの「袋いりますか」まで、ひとつひとつの小さな場面に心の本部が大騒ぎする。完璧ではなくても、ちゃんと行けた一日を描く短編。

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第1章

第一章 前夜の病名リスト

三週間、咳が止まらなかった。

最初の一週間は「風邪だろう」と思った。
次の一週間は「もう治りかけだろう」と思った。
三週間目に入って、ミコは「これはもしかして」と思い始めた。

夜中に目が覚めて、スマートフォンを開いた。
「咳 三週間 止まらない」と検索した。

やってはいけなかった。

本部、深夜零時十四分。

「緊急事態です」

シンパイの声は、静かだった。
いつもより静かなほうが、本部では危険を意味した。

「本日の調査に基づき、考えられる病名リストを作成しました。全員に配布します」

紙が配られた。
A4一枚に、びっしりと書いてあった。

・気管支炎
・マイコプラズマ肺炎
・百日咳
・逆流性食道炎
・咳喘息
・(以下、シンパイが検索して見つけたもの多数)

「ちょ、ちょっと待ってください」とダイジョブが言った。「これ全部ですか」

「可能性は排除できません」

「でも上から三つくらいで十分じゃないですか」

「甘い! インターネットには下に行くほど本当のことが書いてある!」

「そんな法則ありましたっけ」

「今作りました」

「それは法則ではないです」

「キオクさん! 関連映像を!」

キオクが静かに立ち上がった。リモコンを、胸から取り出した。

「……小学二年生の注射の記憶があります」

「病院関係で最も強力な映像です! お願いします!」

「いや待って」とダイジョブが手を挙げた。「深夜に打ちますか、それを」

「今から心の準備を——」

「深夜に一人で注射の記憶を再生されてどうなるか考えてください」

「……一理あります」

「朝にしましょう、朝に」

「……では朝イチで」

キオクが、リモコンをそっとしまった。

ぐうぅ。

「……夜中にお腹がすくのって体に悪いんですかね」とハラヘッタが言った。

「今は食の話じゃない」

「夜食ってどうなんでしょう。病院行く前日の夜食って、アリですかね。ラーメンとか」

「今は関係ない!」

「でも栄養つけとかないと——」

「ッ!」

「……眠い」

端のパイプ椅子で、ネムイが目をこすった。

「そうですよ! 寝てください! 明日に備えてください!」

「……うん」

ネムイは、また静かに寝た。

シンパイがホワイトボードに書いた。

〈明日:内科受診 目標:生きて帰る〉

「目標の設定がおかしくないですか」とダイジョブが言った。

「病院は、何があるかわからない」

「内科ですよ」

「内科でも何があるかわからない!」

ぐうぅ。

「ラーメン、食べたいです」とハラヘッタが言った。

「明日にしてください!!」

「明日は病院なので、消化にいいものを——」

「そこだけ合理的なんですね、あなたは」

ミコは、スマートフォンを伏せた。

検索はよくなかった。
これ以上見ると、朝まで眠れない。

近所の内科を検索して、予約フォームを開いた。
明日の午前に、一枠だけ空きがあった。

「……えいっ」

声に出して、予約ボタンを押した。

確認メールが来た。
〈明日11:00 みずき内科クリニック〉

ミコはスマートフォンを置いて、布団を引っ張り上げた。
眠れない気がした。

ポケットのお守りは、枕元に置いてあった。
「家内安全」という文字が、暗がりの中でかすかに見えた。

(行くだけでいい)

(行くだけ)

眠れない気がしたが、気づいたら朝だった。

第2章

第二章 受付と、問診票との格闘

みずき内科クリニックは、住宅街の中にあった。

白い建物。自動ドア。
駐車場に車が三台。

ミコは十時五十分に着いた。
十分前行動。これだけは、どんなときでもできる。

自動ドアが、自動で開いた。
(よかった、引くか押すかじゃなかった)

中に入ると、受付があった。
白いカウンターに、スタッフさんが一人。

待合室には、先客が四人いた。
みんな静かに座っていた。

ミコも静かに立った。

受付のスタッフさんが顔を上げた。

「ご予約の方ですか?」

「は、はい」

「お名前をどうぞ」

「さ、齋藤ミコです」

「齋藤ミコ様ですね。保険証をお出しください」

本部、緊急起動。

「保険証! 保険証です!!」

シンパイが叫んだ。朝イチの打ち合わせが終わって一分も経っていなかった。

「財布のどこですか!? どこに入っていますか!?」

「カードケースの一番後ろのポケットじゃないですか」とダイジョブが言った。

「確認は!? 昨日確認しましたか!?」

「……してないですね」

「してない!! なぜしてない!!」

「普通は確認しませんよ、そんなに」

「普通は病院に来ない!」

「来ますよ、普通に」

「ッ! とにかく! 財布を開けてください! 急いで!」

ミコの手が財布に伸びた。

カードケースを開けた。
Suica、クレジットカード、ポイントカード……

「見つかりませんッ!!」

「落ち着いて」とダイジョブが言った。「ちゃんとあります、絶対に」

「絶対にって何ですか根拠は!?」

「なんとなく!」

「ッッ!!」

「もう一枚めくってください」とキオクが静かに言った。「保険証は厚みがあるので、後ろのほうに——」

ミコの指が、一枚めくった。

青いカードが出てきた。

「あった」

本部が、五秒間静止した。

「……あった!」とダイジョブが言った。

「……あっただけです! 浮かれないでください!」とシンパイが言った。「まだ手が震えてます!」

「震えてるのはあなたの話し方のせいじゃないですか」

「ッ!!」

ぐうぅ。

「……病院って、売店ありますかね」とハラヘッタが言った。

「ここは小さいクリニックです! たぶんない!」

「そうですか……」

「今から食べ物の心配をしないでください!!」

「はい、確認しました。こちらにどうぞ」

問診票が渡された。

ミコは待合室の端の席に座った。

クリップボードに挟まれた紙。
ボールペンも一緒に渡された。

書き始めようとした。

ボールペンが、かすれた。

(え)

もう一回書いた。

かすれた。

(え、え)

何回か走らせると、なんとか出てきた。薄い線で。

(これでいいのか)

(見えるのか)

(見えなかったら、わたしのせいになるのか)

「……」

受付に「ペンがかすれています」と言えるはずもなく、ミコは薄い線のまま書き続けることにした。

本部では、問診票が全画面に映し出されていた。

「問診票です」とシンパイが厳かに言った。「これは、罠です」

「罠?」とダイジョブが言った。

「そう。「症状を詳しく書いてください」——詳しくとは、どこまでが詳しいのか。詳しすぎると異常者だと思われます。少なすぎると情報不足だと思われます。これは罠です」

「罠ではないですよ」

「罠です」

「罠じゃないですよ、普通に症状を書けばいいだけです」

「普通が何かわからないから問題なんです!!」

「咳が三週間続いています、でいいんじゃないですか」

「それだけ? それだけでいいんですか?」

「十分だと思いますよ」

「くしゃみは? 書きますか? のどの違和感は? 夜中に咳き込んで目が覚めることがあるのは? それを書いたらしつこいと思われますか? 書かなかったら見落とされますか?」

「……」

「ということで洗い出します」

シンパイがホワイトボードに書き始めた。

〈書くべきか否か 判定一覧〉

・咳(三週間)→書く(確定)
・くしゃみ(たまに)→書く?書かない?
・鼻水(少しある)→書く?書かない?
・のどの違和感→書く?書かない?
・夜中に目が覚める→書く?これは別の病気にカウントされる可能性あり
・体がだるい→書く?でも誰でもだるい気がする
・食欲は普通→書かなくていい?「普通」の定義は?
・眠れている→これは書く欄がない

「多い!!!」

「多いですね」とダイジョブが言った。「でも「咳が三週間続いています」で十分ですって」

「それだけで、ちゃんと診てもらえますか!?」

「お医者さんは向こうから聞いてくれますよ」

「聞かれたら答えられませんよ!!」

「……」

「だから今から書いておくんです!! 先手必勝です!!」

「先手必勝って言葉をそういう文脈で使うの初めて見ました」

キオクが静かに言った。「「咳 三週間 のどの違和感あり」で十分だと思います。それだけ書いて、残りは質問されたら答えるで大丈夫です」

「……キオクさん」

「映像は今日はなるべく流しません。病院は現実対応が必要な場面です」

シンパイが深呼吸した。

「……ではその方向で」

ぐうぅ。

「……隣の人のお腹がなりましたか?」とハラヘッタが言った。「それともわたしですか?」

「どっちでも問題ない!!」

「わたしのだったら恥ずかしくないですか? でも相手のだったら気まずくないですか? あとでどっちかわかりましたか?」

「どっちでもいいんです!!」

「どっちでもよくないです、わたしには!!」

「ッッ!!」

ネムイが、待合室の長椅子の温もりで、完全に寝落ちしていた。

ミコは、かすれたボールペンで書いた。

〈咳が三週間続いています。のどに少し違和感があります。〉

それだけにした。

ダイジョブが正しかった。

問診票を持って、受付に戻した。
スタッフさんが「ありがとうございます」と言った。

ミコは席に戻った。

待合室には、古い雑誌が積んであった。
ミコは一冊取って、ページをめくった。
五年前のものだった。
特集が「今年の夏の流行色」だった。
その夏はもう終わっている。

(でもまあ)

ミコはページをめくり続けた。
読んでいない。でも何かを持っていないと、手の置き場がない。
これは美容室と同じだと思った。

「齋——」

呼ばれた。

「……はい」

立ち上がりかけた瞬間、続きが来た。

「——ゾウ様」

(え)

(ゾウ?)

(齋藤じゃなくて、齋像?)

(そんな名字、存在するのか?)

ミコは固まった。

本部、停止。

「……齋像」とシンパイが言った。

「……齋像」とダイジョブが繰り返した。

「……誰ですか?」とハラヘッタが言った。

「ミコでは? たぶん?」とダイジョブが言った。

「でも齋藤が齋像になるって——どういう経路で——」

「訂正しますか?」とキオクが静かに言った。

「訂正——」とシンパイが固まった。「できます? 受付の人に「それは私ではありません、齋藤です」って——」

「難易度は高い」とキオクが言った。「でも言えなかった場合、齋像さんが呼ばれ続けて永遠に診察室に入れない可能性があります」

「それはもっと困る!!」

「え、じゃあ言うしかないですよ」とダイジョブが言った。

「言う!? 言えます!?」

「言えますよ、「すみません、齋藤です」って一言じゃないですか」

「一言が一番難しいんです!!」

「……どうします?」

全員が固まった。

「あの」

ミコの口が、動いた。

「す、すみません、さいとう、です……」

(言えた)

「あ、失礼しました! 齋藤様! どうぞ」

スタッフさんが、少し申し訳なさそうに言って、また笑顔に戻った。

怒ってなかった。当然怒っていなかった。

ミコは立ち上がった。
雑誌を戻して、診察室のほうへ歩いた。

本部では、シンパイが「言えた……! 言えたんですか!?」と放心していた。

「言えましたよ」とダイジョブが言った。「ほらね、できるじゃないですか」

「一言だけ……でも言えた……」

「成長ですよ」

「成長って言葉は大げさです」

「大げさじゃないですよ」

「……」

シンパイがホワイトボードに書いた。

〈名前の訂正:成功〉

小さい字で、書いた。
それから、赤で丸をつけた。

第3章

第三章 診察室と、薬局

診察室は、思ったより小さかった。

白い壁。白いカーテン。
机の向こうに先生が座っていた。
六十代くらいの、白衣のおじさん。
メガネをかけていて、穏やかな顔をしていた。

「はい、齋藤さんね。えー、咳が三週間ですか」

「は、はい」

「うん、三週間はちょっと長いね。ほかには? のどの違和感があるって書いてくれてたね」

「は、はい」

先生が、聴診器を持った。

「ちょっと聴かせてもらいますね」

背中に、聴診器の丸い部分が当たった。
冷たかった。

「息を吸って、はい、ゆっくり吐いて」

ミコは言われた通りにした。

「うん、うん。もう一回」

もう一回した。

「はい、いいですよ」

先生が戻った。

「他に気になるところはありますか?」

本部、白紙。

「他に気になるところ」とシンパイが繰り返した。「……あります。あります、あります、あります」

「何がありますか?」とダイジョブが言った。

「最近、なんか体がだるい気がするとか、夜中に起きることがあるとか、なんとなく食欲が——」

「全部「なんとなく」じゃないですか」

「だからこそ伝えるべきでは!?」

「「なんとなく体がだるいです」は、全人類に該当するのでは?」

「……でも言ったほうが——」

「先生に「それは関係ないですよ」って言われたらどうしますか?」

「……傷つきます」

「傷つきますね」

「傷つくのは困ります!!」

「だったら——」

「でも言わないと不安です!!!」

「……」

「言う! 言いますが! 何から!? どういう順番で!?」

「シンパイさん落ち着いてください」とキオクが言った。「今、先生はまだ待っています。今答えを出せる?」

「……出せない」

「だったら「大丈夫です」でいいです」

「大丈夫じゃないかもしれない!」

「でも「大丈夫です」と言ったあとで何か思い出したら、「あ、一つだけ」って言えばいい」

「……そんなこと言えます?」

「言えます。先生は急いでないです」

「……」

ぐうぅ。

「……先生が穏やかな顔をしていてよかったですね」とハラヘッタが言った。

「今は関係ない!」

「怖い顔の先生だったらどうなっていたかと思って」

「今は関係ない!!」

「ネムイさん!!」

全員がネムイを見た。

「……ちゃんと伝えろ」

ネムイが、目を開けずに言った。

全員が止まった。

「え」

「……ちゃんと伝えろ。先生は、ミコの代わりに体の中を見られない。言葉だけが頼りだ。全部じゃなくていい。一個だけ、ちゃんと言え」

ネムイが、また目を閉じた。

本部が、静まり返った。

「……」とシンパイが言った。

「……一個だけ」とダイジョブが繰り返した。

「……夜中に起きることがある、を言いましょう」とキオクが静かに言った。「それは客観的な事実です。なんとなくじゃない」

「……採決します」

シンパイが深呼吸した。

「「夜中に咳で起きることがある」と伝えることに——賛成の者」

全員の手が、上がった。
ネムイの手も、寝たまま、上がった。

「……あの」

ミコの口が、動いた。

「はい?」と先生が顔を上げた。

「夜中に、咳で目が覚めることが、何回かあって……」

「そう! それは大事ね」と先生が言った。怒っていなかった。むしろ少し前のめりになった。「それはいつ頃から?」

「え、と……二週間くらい前から、です」

「うん、うん。そうか。」

先生がカルテに何かを書いた。

「じゃあレントゲン撮りましょうか。念のため」

「……はい」

「たぶん大丈夫だと思うけどね、ちょっと確認しましょう」

レントゲンを撮った。
廊下で待った。
また診察室に呼ばれた。

「問題ないですよ。気管支炎でしょうね、軽いやつ。咳止めと気管支を広げるお薬出しますから」

「……よかった」

また思わず声に出た。

先生が「うん、たいしたことないからね」と言って、処方箋を書いた。

「お薬は飲めますか? 錠剤で大丈夫?」

本部、緊急停止。

「……錠剤」とシンパイが言った。

「……苦手」とダイジョブが言った。珍しく、小声で。

「……知ってます」とキオクが言った。「四年前、カプセル薬を飲もうとして喉に引っかかって大変だった記憶、持ってます」

「……今は流しますか?」

「……今は流しません。でも、苦手なのは事実です」

シンパイが深呼吸した。

「……言います?」

「言えます?」とダイジョブが聞いた。

「……言えない、かもしれない」

「……言えなかったら?」

「……苦手な錠剤を飲み続けることになります」

全員が黙った。

ぐうぅ。

「……粉薬ってありますよね、粉の」とハラヘッタが言った。「粉なら飲めますかね」

「……ハラヘッタさん」

「なんですか」

「……今、いいことを言いましたか?」

「言いましたか?」

「……粉薬があるかどうか、聞けますよね。「錠剤が少し苦手なんですが」って」

「言えますよ」とダイジョブが言った。

「……難しいですか」

「「少し苦手」って言えば、先生は選択肢を出してくれますよ。きっと」

「根拠は?」

「なんとなく!」

「……今日だけ、採用します」

「あの」

「うん?」と先生が顔を上げた。

「錠剤が、少し……苦手で……」

「あ、そう! じゃあ粉にしましょうか」

先生が、あっさり言った。
全然困った顔をしていなかった。

「は、い……」

「最近は粉のほうが飲みやすい人も多いからね。はい、じゃあこれで」

処方箋が書き直された。

ミコは頭を下げて、診察室を出た。

本部では、シンパイが「言えた……! また言えた……!」と頭を抱えていた。

「大丈夫でしたよ」とダイジョブが言った。

「大丈夫でした……ね……」

「先生もプロだから、患者さんのいろんな事情に慣れてますよ」

「……さっきそれ言ったら「根拠は?」って言いましたよ」

「今は言いません」

「……なぜですか」

「なんとなく」

「……」

シンパイがホワイトボードに書いた。

〈錠剤が苦手:申告成功〉

それから少し考えて、赤で三回、丸をつけた。

薬局は、クリニックの隣にあった。

処方箋を出して、番号札を受け取って、また待った。

「三番の方」と呼ばれた。

番号札を持って、カウンターへ行った。

薬剤師さんが、丁寧に説明してくれた。

「こちらが咳止めで、一日三回、食後にお飲みください。こちらが気管支の——」

(一日三回食後)

(それはわかった)

(でも「食後」って、食べてすぐですか? 三十分後ですか? 一時間後ですか?)

(それを聞いていいですか?)

(聞いたら「そのくらい常識でしょ」と思われますか?)

(思われませんか?)

(でも飲み方が違ったら効き目が変わりますか?)

(変わりますよね、たぶん)

(聞くべきですか)

(でも——)

本部、大混乱。

「食後! 「食後」とはいつか!!」

シンパイがホワイトボードに書いた。

〈「食後」の定義〉

・食べた直後?
・食べてから30分?
・食べてから1時間?

「重要案件です!! 薬の効き目に関わります!!」

「聞けばいいじゃないですか」とダイジョブが言った。

「聞けます? 薬剤師さんに? 「食後ってすぐですか」って?」

「聞けますよ、普通に」

「普通は知ってる前提で話してませんか!?」

「知らなくて当然ですよ、そんなの」

「でも「そんなことも知らないんですか」って顔をされたら——」

「されませんよ」

「されたら——」

「されません」

「でも——」

「ッ——」とダイジョブが、珍しく言いかけた。

「……聞いてもいいですよ」とキオクが静かに割り込んだ。「薬剤師さんの仕事に、そういう質問への回答も含まれます。聞いて変な顔をされたことは、過去の映像にも一度も出てきません」

シンパイが止まった。

「……本当に?」

「映像には出てきません。あなたが怖がるほど、現実に変な顔をされたことはないはずです」

「……」

「一回だけ、聞いてみてください」

ぐうぅ。

「……わたし、粉薬って甘い味のことありますよね」とハラヘッタが言った。「ぶどう味とか」

「今は関係ない!!」

「でも楽しみじゃないですか、ちょっと」

「楽しみじゃないです!!」

「……夜ご飯はなんにしますかね」

「今は関係ない!!!」

「——何かわからないことはありますか?」

薬剤師さんが言った。

ミコは、一秒間、固まった。

(聞く)

(食後ってすぐですか、て)

(聞く)

「あの……食後って、食べてすぐですか? それとも、少し時間が経ってから……」

「あー、基本的には食べてすぐで大丈夫ですよ! 食事中でも全然いいです。胃に何か入っていれば」

「あ……そうなんですね」

「はい。忘れないうちに飲んじゃってください」

薬剤師さんは、全然変な顔をしなかった。

ミコは「ありがとうございます」と言って、袋を受け取った。

本部では、シンパイが「聞けた……! 聞けた……!」と壁に手をついていた。

「大丈夫でしたよ」とダイジョブが言った。

「大丈夫でした……また……」

「毎回そう言うじゃないですか」

「毎回本当に心配なんです」

「でも毎回大丈夫じゃないですか」

「……そうですね」

「今日は何回「大丈夫でした」って言いましたか」

「……数えていません」

「結構な回数ですよ」

「……」

シンパイが、ホワイトボードに向かった。

〈食後の定義:解決〉

と書いた。

それから少し考えて、書き足した。

〈聞けた〉

短い言葉だったが、本部では誰も笑わなかった。

本文挿絵用、横長4:3、文字なし、スマホ読書の途中に入れても邪魔にならない静かな構図。人物を描く場合はこの作品専用の人物デザインにし、他作品の人物と顔立ち・髪型...
第4章

第四章 袋いりますか

外に出た。

空が、白かった。
昼間の白い空。雲が多くて、日差しが柔らかかった。

ミコは薬の袋を持って、歩いた。

クリニックの前の道を、駅の方向に向かった。

(たいしたことなかった)

先生の言葉が頭の中に残っていた。

「たいしたことないからね」

(たいしたことなかった)

三週間、先送りにしていた。
先送りにしながら、夜中に検索して、シンパイが配布した病名リストを何度も読んだ。

(たいしたことなかった)

なんだかおかしかった。
笑いはしなかったけど、おかしかった。

駅の手前に、コンビニがあった。

ミコは足を止めた。

(栄養ドリンク)

なんとなく、そう思った。
今日、病院に行った日に、栄養ドリンクを買う。
なんとなくそういう気がした。

コンビニの自動ドアが開いた。
(またこれは自動でよかった)

飲料コーナーに行った。
栄養ドリンクが、種類別に並んでいた。

どれがいいかわからなかった。
でも、一番目立つところにあった黄色い瓶を取った。

レジに持って行った。

本部、静かな待機モード。

「レジです」とシンパイが言った。「確認事項があります。「袋いりますか」と聞かれます」

「聞かれますね」とダイジョブが言った。

「その場合の答えは?」

「「いりません」か「ください」のどちらかです」

「どちらにしますか?」

「……どっちでもいいんじゃないですか」

「どっちでもよくない! いる・いらないの判断が必要です!!」

「栄養ドリンク一本ですよ。袋に入れても入れなくても——」

「問題はそこじゃない! 答えられるか、が問題です!!」

「答えられますよ」とダイジョブが言った。「「いりません」って言えますよ」

「根拠は?」

「今まで言えてきたじゃないですか。今日だけで——名前の訂正、夜中に起きること、錠剤が苦手、食後ってすぐか——」

「全部言えたとは言えないです」

「全部言えましたよ!」

「あ——」とシンパイが止まった。

「……全部、言えましたね」と、シンパイが小声で言った。

「そうですよ」

「……言えましたか、全部」

「言えました、全部」

シンパイが、ホワイトボードを見た。

今日書いたものが、並んでいた。

〈名前の訂正:成功〉
〈錠剤が苦手:申告成功〉
〈食後の定義:解決 聞けた〉

「……」

「ね?」とダイジョブが言った。

「……ね、とは何ですか」

「ね、です」

「……」

ぐうぅ。

「……今日の夜ご飯、何にしますかね」とハラヘッタが言った。

「今から!?」

「病み上がりには、おかゆとか——」

「病み上がりじゃない、まだ治ってない——」

「じゃあ病院帰りには、おかゆとか——」

「それはまあ……理にかなって——」

「しじみのおかゆとか、どうでしょう。栄養あるし、消化いいし——」

「……今はレジです」

「はい」

「レジが終わったら、ゆっくり考えます」

「わかりました」

「……しじみのおかゆ、悪くないですね」

「でしょう!」

ネムイが、静かに寝た。

「今回は起こさなくていいですか?」とキオクが言った。

「……今回はもう大丈夫です」とシンパイが言った。

「……そうですか」

「……そうです」

「五百二十円です」

ミコがICカードを出した。

ピッと鳴った。

「袋いりますか?」

ミコは一秒だけ考えた。

「い、いりません」

「ありがとうございましたー」

レジを離れた。

栄養ドリンクを、手に持って、コンビニを出た。

外の空気が、冷たかった。

ミコはそのまま歩いた。
栄養ドリンクのキャップを開けて、少し飲んだ。
甘くて、少し苦かった。

本部では、誰も叫んでいなかった。
シンパイが、パイプ椅子に座っていた。
古いパイプ椅子が、ギィ、と鳴いた。

「……今日の成功事項を集計します」

静かな声で言った。

ホワイトボードに、順番に書いた。

〈予約ボタンを押した〉
〈電話確認に出た(前作から継続)〉
〈保険証が見つかった〉
〈問診票を書いた〉
〈名前の訂正ができた〉
〈夜中に起きることを伝えられた〉
〈錠剤が苦手を申告できた〉
〈食後の意味を聞けた〉
〈袋いりませんと言えた〉

「……多い」とキオクが静かに言った。

「多いですね」とダイジョブが言った。

「……そうですね」とシンパイが言った。

ハラヘッタがホワイトボードを眺めた。

「全部、言えたんですね」

「……全部ではないです」とシンパイが言った。「「他に気になるところは?」で一瞬詰まりました。「お薬は飲めますか?」も、すぐには言えなかった。完璧ではなかったです」

「でも言えましたよ、最終的に」とダイジョブが言った。

「……最終的に、言えました」

「それでいいじゃないですか」

「……」

シンパイがホワイトボードを見た。
今日一日が、そこに並んでいた。

「……「袋いりません」が、今日一番言いやすかったですね」

「確かに」とダイジョブが笑った。

「でも言えたことは言えたことです」とシンパイが言った。

「そうですよ」

「……うるさいですね、あなたは」

「そうですよ」

「…………」

シンパイが、ホワイトボードの端に、小さく書いた。

〈袋いりません:今日一番言えた〉

ミコは家に帰った。

コートを脱いで、薬の袋をテーブルに置いた。
栄養ドリンクを、飲みきった。

ソファに座った。
お守りをポケットから出して、テーブルに並べた。

「家内安全」の文字。
今日もかすれていた。変わっていない。

(たいしたことなかった)

(三週間、先送りにしていた)

(でも、行った)

ミコは天井を見た。

電話があって、受付があって、問診票があって、名前を間違えられて、診察があって、「他に気になることは?」があって、錠剤の話があって、薬局があって、コンビニがあった。

全部、なんとかなった。
全部じゃない。でもなんとかなった。

「袋いりません」が一番言いやすかった。

なんでかはわからないけど、そういうものかもしれない。

ミコはソファに横になった。

枕を引き寄せて、お守りを握った。

(次は、また咳が止まらなくなる前に行こう)

(三週間は長すぎた)

(でも、行った)

(行けた)

目が、少し重くなった。

本部では、シンパイが使い古されたパイプ椅子に深く座っていた。
ハラヘッタが「おかゆ作りますか」と言って、誰かが「作れないです、わたしたちには」と言った。

ネムイがぐっすり眠っていた。

ダイジョブが、ホワイトボードを見ていた。

今日の成果が、並んでいた。
最後の一行を、もう一度読んだ。

〈袋いりません:今日一番言えた〉

ダイジョブは、一人でくすりと笑った。

誰も見ていなかったが、笑った。

今日はそれでよかった。

— 了 —

After Reading

読後の余韻に、次の一編を。

ほんすこ編集部レビュー

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