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あったかい日常

三ヶ月ぶりの戦場

美容室は、ミコにとって小さな戦場だった。

あらすじ

三ヶ月ぶりに美容室を予約したミコ。確認電話、押すか引くかわからないドア、髪型の注文、施術中のトイレ申告、次回予約の断り方。ひとつひとつは小さな出来事なのに、ミコの心の本部では大事件ばかりが起きていく。全部うまくできたわけではないけれど、帰り道のミコは少しだけ軽くなっていた。

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第1章

第一章 予約確認の着信

三ヶ月ぶりに、ミコは美容室の予約を入れた。

きっかけは、カフェだった。
CAFÉ NIJIMIでコーヒーを飲んで帰った日、鏡を見たら自分の髪が肩の下まで伸びていることに気づいた。伸びていることには気づいていたが、改めて鏡で見ると、「これは髪というより意志の問題だ」という気がした。

つまり、切りに行けない自分への言い訳として、伸ばしているのだ。

(カフェのドアを開けたんだから)

ミコはスマートフォンを握って、美容室の予約サイトを開いた。ネットで完結するやつ。電話しなくていいやつ。それが条件だった。

三分悩んで、予約ボタンを押した。

確認メールが来た。

〈ご予約を承りました。担当:ナツメ 日時:土曜日 14:00〉

「やった」とミコはつぶやいた。

本部では、シンパイがホワイトボードに「美容室」と書いた瞬間から、緊急アラートが点滅し始めた。

予約から二日後の木曜日、午後三時十七分。
ミコのスマートフォンが鳴った。

画面に表示された番号を見て、ミコの血の気が引いた。

見覚えのない市内の番号。
でも、なんとなく、わかった。
美容室だ。

三コールの間、ミコは「出る」「出ない」「出る」「出ない」を高速で繰り返した。

本部では、すでに大騒ぎだった。

「緊急会議ッ!! 電話ッ! 着信ッ!!」

シンパイがホワイトボードを引っくり返した(本人はそのつもりだったが、棚を倒した)。

「美容室からの電話と推定! 対応シナリオを構築します!」

〈最悪の事態〉

・予約が消えていた
・予約の日程を変えたい(でも言えない)
・「実はキャンセル料が発生します」と言われる
・なんか知らないけど怒られる

「なんか知らないけど怒られるって何ですか」とダイジョブが言った。

「可能性は排除できません!」

「いや排除できます、普通に」

「キオクさん! 関連映像を!」

キオクが静かに立ち上がった。リモコンを、胸から取り出した。

「五本あります。アルバイト先への電話で噛んだやつ、ピザ注文で住所を二回言い直したやつ、病院の予約電話で保険証番号を聞かれて詰まったやつ——」

「全部流してください!」

「全部は流しすぎでは?」とダイジョブが言った。

「何本でも足りないくらいです! 電話は! 恐ろしいんです!」

ぐうぅ。

「……あの、今ちょうど三時のおやつの時間なんですけど」

「ハラヘッタさん、今はそれどころじゃないッ!」

「午後三時のおやつって、なんかこう、プリンとかどら焼きとかじゃないですか。美容室近くにおいしい和菓子屋さんとかあるんですかね」

「ッッ!!」

「……五コール目」とキオクが静かに言った。「そろそろ切れるか、出るかです」

全員がモニターを凝視した。

「……ネムイさん、なにか!」

端のパイプ椅子を見た。

ネムイは熟睡していた。

「使えない!!」

六コール目で、ミコは出た。

「は、はい」

「こんにちは、ヘアサロン・ルシオルでございます」

やさしい声だった。全然怒っていなかった。

「土曜日十四時にご予約いただいております齋藤ミコ様でいらっしゃいますか?」

「は、はい」

「ご予約の確認のお電話をさせていただきました。土曜日のご予約、変更やキャンセルはございませんでしょうか?」

「な、ないです。大丈夫です、行きます、はい」

「ありがとうございます。それではお待ちしております」

「あ、はい、よろしくおねがいします、はい、ありがとうございます、では」

電話が切れた。

ミコはスマートフォンを両手で持ったまま、しばらく動けなかった。

本部では、シンパイが「撃墜! 無事撃墜!」と叫んでいた(意味は謎だった)。

ダイジョブが「ほら大丈夫でしたよ!」と手を振ったが、シンパイは聞いていなかった。

ハラヘッタが「プリン食べたいな」と言った。

ネムイは起きていなかった。

ミコはポケットのお守りを握りしめて、深呼吸した。
土曜日まで、あと二日。

第2章

第二章 到着、そしてドアの問題

土曜日は、晴れていた。

ミコは十三時五十分に、美容室の建物の前に着いた。
十分前行動。これはミコの唯一の得意なことだった。

ヘアサロン・ルシオルは、ビルの一階にあった。
ガラス張りの、おしゃれな店だった。
中が全部見えた。

それが問題だった。

中が見えるということは、中の人からも外が見える。つまり、いま外で立ち止まっているミコの姿が、中の美容師さんたちにも見えている可能性がある。

(見えてる)

(絶対見えてる)

(「あのお客さん、なんで外で固まってるんだろう」って思われてる)

(でも動けない)

(動けないからさらに見られてる)

ミコは視線を下に落とした。
膝のあたりをじっと見つめた。

ドアがあった。
大きな、重そうな、黒いドアだった。
バーハンドルがついている。
引くのか押すのか、書いていない。

(押す? 引く? 押す? 引く?)

本部、緊急事態。

「ドアです! バーハンドルです! 引きか押しかわかりません!!」

シンパイがホワイトボードに〈引き〉〈押し〉と書いて、それぞれに矢印を描き始めた。

「引き派の主張:バーハンドルは一般的に引き。押し派の主張:おしゃれな店は押しが多い。どちらが正解か——」

「普通に考えたら押しじゃないですか?」とダイジョブが言った。「ガラス張りで、この感じだと——」

「根拠は!?」

「なんとなく!」

「却下!」

「あの」とキオクが静かに手を挙げた。「七年前、イタリアンレストランで思いっきり引いたら押しだったやつ、流しますか」

「ッ!! お願いします!!」

「いや流さないでいいです!」とダイジョブが飛びついた。「流してどうするんですか!? 今は実際にドアを開けなきゃいけないんですよ!?」

「心の準備が——」

「心の準備より扉の開け方です!」

ぐうぅ。

「……美容室って、施術中にお菓子とか出てきますかね」

「ハラヘッタさん!!」

「いや、前に行ったときにキャンディが出てきたんですけど、今日はどうかなーって」

「どうでもいい!」

「キャンディはどうでもよくないです、わたしにとっては」

「ネムイさん!!」

ネムイは寝ていた。

「も、もういい! ダイジョブ、押しでいきます! 根拠は」

「なんとなくです」

「……採用します」

「え、採用されるんですか」

初めてだった。

「緊急事態です」とシンパイが言った。複雑な顔をしていた。「今日だけです」

ミコはドアのバーハンドルに手を置いた。

冷たかった。金属の重い感触。

(押す)

グッと力を入れた。

……動かなかった。

(引く?)

今度は引いた。

ガチャン、と重い音がして、ドアが開いた。

「いらっしゃいませ!」

中から声が飛んできた。

ミコは固まった。でも足は動いた。
一歩、中に入った。

温かい空気と、シャンプーの甘い匂い。
音楽が低く流れていた。

受付のスタッフさんが笑顔で言った。

「齋藤様ですか?」

「は、はい」

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

案内された席に座った。
鏡の前の席だった。自分の顔が映っている。

(怖い顔してる)

ミコはお守りをポケットの中で握った。

待合に置いてあった雑誌に手を伸ばした。
ファッション誌だった。もう誰かが読んだあとで、少しページの端が折れている。

ミコはそれをぱらぱらとめくった。
読んでいない。でも何かを手に持っていないと、手の置き場所がわからなかった。

ほどなくして、担当の美容師さんがやってきた。

「お待たせしました。ナツメと申します、よろしくお願いします!」

三十代くらいの、元気そうな女性だった。
にこにこしていた。怖くない雰囲気だった。

「よ、よろしくお願いします」

ナツメさんがケープをかけてくれた。
白いケープ。ミコはその端を、膝の上でぎゅっと握った。

「今日はどんな感じにしますか?」

ミコの頭が、真っ白になった。

本部、爆発。

「緊急事態最大ッ!! どんな感じ問題発生ッ!!」

シンパイがホワイトボードを引き倒した(二回目)。

「どんな感じ! どんな感じとは何か! 長さか! スタイルか! 雰囲気か! 何を答えればいいのか!!」

〈最悪シナリオ〉

・「えーと」と言い続けて沈黙が続く
・「おまかせで」と言って変な髪型になる
・説明しようとして噛みまくる
・「短めで」と言ったら耳より短くなる
・「なんかおしゃれな感じで」と言って意味が伝わらない

「全部最悪です!!」

「事前に考えてきた言葉があるじゃないですか」とダイジョブが言った。「「肩につくくらいで、軽くしてほしいです」って、ちゃんと決めてきたじゃないですか」

「言えます!? 本当に言えます!?」

「言えますよ。簡単ですよ。ほら、「肩につくくらいで——」」

「キオクさんッ!!」

「っ、流しませんよ」とキオクが静かに言った。「今回は、流しません」

「え?」

「今回は」

シンパイが目を見開いた。「な、なぜです!?」

「……事前準備があります。今回のミコは、ちゃんと準備してきた。邪魔したくない」

「でも万が一——」

「万が一は、そのときです」

「そのときじゃ遅い——」

ぐうぅ。

「……すみません、さっきからキャンディ気になってるんですが」

「ハラヘッタさん!!」

「キャンディを前方に確認しました。受付の前のガラスの器の中に、いくつかあります」

「今はそれどころじゃ——」

「飴のフレーバーはなんでしょうか。はっかですか。フルーツですか。レモンがあったらいいんですが」

「ッッ!!」

「ミコの口が動いてます」とキオクが言った。

全員がモニターを見た。

「……肩につくくらいで、軽くしてほしいんですけど」

言えた。

「いいですね! ではカットだけですか? トリートメントとかはどうされますか?」

(トリートメント)

(どうするんだろう)

(したほうがいいのか)

(でも値段が……)

「え、えっと……」

「今日はシャンプーとブローも込みになってますので、プラスでトリートメントを足すかどうか、ということなんですが——」

「あ、じゃあ……大丈夫です、カットだけで」

「わかりました! では始めましょうか」

ミコは、少し息を吐いた。

本部では、シンパイが「辛勝……!」と言いながらパイプ椅子に崩れ落ちていた。ギィ、と椅子が鳴いた。

ダイジョブは「ほらね!」と飛び跳ねたが、誰も聞いていなかった。

ハラヘッタはキャンディのことを考えていた。

第3章

第三章 シャンプーと、緊急トイレ問題

シャンプー台は、怖かった。

仰向けになって首を乗せる台。頭が後ろに倒れる角度。視界が天井だけになる瞬間。

ミコは毎回ここが苦手だった。

「力抜いていただいて大丈夫ですよ」とナツメさんが言った。

「は、はい」

お湯が頭にかかった。

温かかった。
すごく、温かかった。

本部、静寂。

「……シンパイさん」とダイジョブがささやいた。「シンパイさん」

シンパイが振り向いた。

「……ネムイさんが」

全員がネムイの席を見た。

端のパイプ椅子。
ネムイは、信じられないほど気持ちよさそうな顔で、完全に寝落ちしていた。

シャンプーのお湯の温かさが、直接伝わったらしかった。

「……これは」とシンパイが言った。「まずい。クライマックスに向けてキープしておかないと——」

「でも気持ちよさそうですね」とハラヘッタが言った。

「今は感想を言う場合じゃ——」

「頭皮マッサージって最高ですよね。わたしもやってほしい。頭皮マッサージしながらシュークリームとか食べたい」

「一人の人間の頭を洗いながらシュークリームは不可能です」

「食べる側の話です、わたしが」

「ッ! とにかく! ネムイをキープします! クライマックスまで——」

「大丈夫ですよ」とダイジョブが言った。「いつもちゃんと起きるじゃないですか」

「いつもギリギリじゃないですか!」

「ギリギリでも起きてますよ」

「おまえはいつも楽観的すぎる!!」

「おまえって言いましたよ、今」

「言いました、悪かった! 今それどころじゃないッ!」

キオクが静かに言った。「ミコの状態は安定しています。シャンプーが気持ちいいみたいです」

「……そうですか」

シンパイが少しだけ、力を抜いた。

「……ちょっとだけ休憩にしますか」

「賛成です」とダイジョブが言った。

「賛成です」とハラヘッタが言った。「あのキャンディ、レモンでした」

「なんで知ってるんですか」

「受付で一個もらいました」

「いつのまに!?」

シャンプーが終わった。

椅子に戻って、ナツメさんがカットを始めた。
チョキチョキと、リズミカルな音がする。

ミコは鏡を見ていた。
鏡の中の自分は、ケープを巻いた状態で、少し緊張した顔をしていた。

(大丈夫)

(大丈夫大丈夫)

カットの音が続く。
音楽が、低く流れている。

そのとき、ミコはあることに気づいた。

(お腹が……)

(いや、お腹じゃなくて)

(もう少し下が)

ミコの表情が、かすかに固まった。

(トイレ)

(行きたい)

(ものすごく行きたい)

本部、緊急警報。

「トイレ案件発生ーーッ!!!」

シンパイが跳び上がった。

「緊急度! 最大!! シャンプー中は問題なかったのに今更ッ!!」

「シャンプーのお湯が温かかったせいじゃないですか」とダイジョブが言った。

「原因は後でいい! 今どうするかですッ!」

「言えばいいじゃないですか」とダイジョブが言った。「「すみません、トイレに行っていいですか」って」

「言えます!? カットの途中で!?」

「言えますよ、普通に」

「普通にって何ですか! 何が普通なんですか!」

「言っていい状況ですよ、それは絶対に」

「でも——でも——手を止めさせてしまう——迷惑じゃないか——そんなタイミングで——」

「美容師さんも人間ですよ。絶対に慣れてますよ」

「慣れていても! ミコが申し訳ない思いをする!」

「そこはもう仕方ないじゃないですか!」

「仕方なくない!!」

「ダイジョブさんが正論ですよ」とキオクが静かに言った。

シンパイが振り向いた。「え」

「これは言うべきです。施術中でも言えます。そのほうがいい。言えなかったときのほうが、ミコは後で後悔する」

「でも……でも映像で言うと……四年前に歯医者で我慢して途中で倒れかけたやつが——」

「流しません」とキオクが言った。「今日は流しません」

「な、なぜ!?」

「歯医者と美容室は違います」

「……」

「言えます。言うべきです。ダイジョブさんの意見に、今日は賛成します」

ダイジョブが、目を丸くした。

「キオクさんが……! キオクさんが賛成してくれた……!!」

「ぐすんとしないでください」

「ぐすんとしてないですよ、目に何かが——」

ぐうぅ。

「……さっきのレモンキャンディ、すっぱかったです」

「ハラヘッタさん!!!」

「あ、でもトイレ行きたいのわかります。飴食べると唾液が出るから——」

「話が合流してる場合じゃない!!」

「ネムイさんを起こしますか?」とキオクが言った。

全員がネムイを見た。

依然として熟睡中だった。

「クライマックスまで取っておきたい……!」とシンパイが言った。

「でも今がクライマックスじゃないですか?」とダイジョブが言った。

「美容師問題のほうが——」

「今は! トイレが!!」

「……採決を取ります」

シンパイが深呼吸した。

「トイレを申告することに——賛成の者」

ダイジョブが即座に手を挙げた。
キオクが、静かに手を挙げた。
ハラヘッタが「わたしもトイレ行きたい」と言いながら手を挙げた。

「ハラヘッタさんの分はノーカンです」

「え、なんで」

「……」

シンパイが一秒間、目を閉じた。

「全員賛成と見なします」

自分の手は挙げなかったが、採決は取った。

「……言ってきてください、ミコ」

「あ、あの」

ミコの声が出た。
小さかった。でも出た。

「はい?」とナツメさんが手を止めた。

「……トイレ、行ってもいいですか」

「もちろんです! あちらにありますよ」と、ナツメさんは全然困った顔をせず、にこやかに指さした。

「あ……ありがとうございます」

ミコは立ち上がった。

ケープを持ちながら、トイレに向かった。

扉を開けて、中に入った。
鍵をかけて、息を吐いた。

一人になった。

(言えた)

(言えたら、よかった)

天井を見上げて、ミコは小さく息を吐いた。

本部では、シンパイが「何故か安堵している……! なぜだ……!」と頭を抱えていた。

「言えたからじゃないですか」とダイジョブが言った。

「そういうことになりますか!!」

「そういうことです」

美容室のトイレで、ミコが扉にもたれてお守りを握り、小さく息を吐いている
第4章

第四章 仕上がりと、帰り道

トイレから戻ったミコは、もう一度椅子に座った。

「すみませんでした」と言ったら、「いえいえ!」とナツメさんが笑った。

カットが再開した。

さっきよりも、少しだけ、体が軽かった。
なんでだろうと思ったが、考えるのをやめた。

ナツメさんは話しかけてきた。

「お仕事は何されてるんですか?」

(うわ来た、雑談)

(何を言えばいい)

「え、と……事務系の仕事です」

「あー、お家でされてる感じですか?」

「そう、です……在宅が多くて」

「いいですよね、在宅! 満員電車乗らなくていいじゃないですか」

「……そうですね」

それだけで会話が終わった。
ナツメさんは「じゃあ楽ですね!」と言って、また黙々とカットを続けた。

(怒ってない)

(全然怒ってない)

ミコはケープの端を、また膝の上でぎゅっと握った。

本部では、まだシンパイが何かをホワイトボードに書いていた。

〈会話パターン別・最悪シナリオ図解(全47種)〉

「シンパイさん、もうカット終わりそうですよ」とダイジョブが言った。

「まだ仕上げがあります! 乾かしてもらう間も! 最後の会計も! 気を抜く場面は一箇所もない!」

「なんか……楽しんでますよね」とハラヘッタが言った。

「何ッ」

「シナリオ図解、すごく丁寧に描いてるなーって」

「……これは仕事です」

「でもすごく細かいし、字がきれいだし——」

「黙ってください!」

「本当に楽しいんだと思います」

「ッッ!!」

キオクが静かに言った。「ブローが始まりました」

全員がモニターを見た。

ドライヤーの音。
ブラシで形が整えられていく。

「……ちょっと待って」とシンパイが言った。

「何ですか?」

「……イメージと、違う」

全員が画面を見た。

ナツメさんがブラシで仕上げた髪型は、確かに「軽くなった」し「肩についている」が——なんか、こう、思っていた雰囲気とは少し違った。

「わかります? ちょっと横の膨らみが——」

「ブローの問題じゃないですか?」とダイジョブが言った。「帰って自分でやったら変わりますよ、たぶん」

「たぶんってなんですか」

「なんとなく」

「根拠なし!」

「でも怒るほどじゃないですよ」

「怒ってない! ただイメージと違う!」

「言えますか? 「もう少しこうしてほしい」って」

「……言えません」

全員が黙った。

「……言えません? シンパイさん」とダイジョブが繰り返した。

「言えません。ミコが言えない。それをわたしは知っている」

「……」

「そこを無理やりしゃべらせようとすることが、一番怖い。違う?」

ダイジョブが、少し口をつぐんだ。

「……そうですね」

「だから」とシンパイが言った。「これは——言えない。でも、それでいい案件かどうかの判断を、今しています」

キオクが静かに言った。「帰ってから、また伸ばせます。次回に言える言葉を準備する時間も、あります」

「……そうです」

シンパイがホワイトボードに書いた。

〈今日は、言えなくていい〉

「ネムイさんを起こしますか?」とハラヘッタが言った。

「まだです」とシンパイが言った。「あと一山あります」

「お待たせしました! いかがですか?」

ナツメさんが手鏡を差し出した。

鏡の中の自分。

後ろから見た、自分の髪。

(……)

思っていたより、横に広かった。
でも、軽くなっていた。
三ヶ月分の重さが、落ちていた。

「あ……」

ミコは何か言おうとした。
「もう少し、こうしてほしい」と言おうとした。

「ありがとうございます」

出てきたのは、それだけだった。

「よかったですー!」とナツメさんが笑った。

(言えなかった)

でも、怒っていない。
ただ、少し、おかしかった。

「ありがとうございます」しか言えない自分が、少しだけ、おかしかった。

会計のとき、受付のスタッフさんが言った。

「次のご予約はどうされますか?」

(来た)

本部では、シンパイが「最終局面ッ!!」と叫んだ。

「次の予約! するかどうか! いつにするか!! 二ヶ月後か! 三ヶ月後か!! またネットで入れたいがその旨を言えるか!!」

「ネムイさん!!」とダイジョブが叫んだ。「今です!! 起きてください!!」

端のパイプ椅子に、全員が駆け寄った。

「ネムイさんッ!!!」

ネムイが、ゆっくり目を開けた。

一度まばたきした。
ぼんやりと、全員の顔を見渡した。

それから静かに言った。

「……また三ヶ月後でいいんじゃないですか」

「「また三ヶ月後」をどうやって伝えるんですか!」

「「また三ヶ月後くらいに来ます」って言えばいいじゃないですか」

「……それだけですか」

「それだけです」

ネムイはまた目を閉じた。

「…………採決します」

シンパイが振り返った。

「「また三ヶ月後くらいに来ます」と言うことに——賛成の者」

全員の手が、上がった。
ネムイの手も、寝たまま、上がっていた。

「えと……また、三ヶ月後くらいに、来ます」

「ありがとうございます! ではまたネットからご予約いただければ、大丈夫ですよ」

「……よかった」

思わず声に出てしまって、ミコは口を押さえた。

「え?」とスタッフさんが言った。

「あ、いえ……ありがとうございます」

「またのご来店お待ちしております!」

ミコは頭を下げて、扉を押した。

今度は、一発で開いた。

外に出た。
空が、青かった。

三時間くらいいた気がしたが、一時間半だった。

ミコは歩き出した。

駅に向かう道。
ショーウィンドウが並んでいる商店街。

ふと、ウィンドウに自分の姿が映った。

ミコは、立ち止まった。

(……)

思っていたより、横に広くはなかった。
室内の鏡で見たときと、外で見るのと、光が違うのかもしれない。

軽かった。
肩が、軽かった。

三ヶ月ぶんの重さが、確かに落ちていた。

ミコは鏡を見た。
鏡の中の自分を、少し長く見た。

「……まあ、悪くないか」

誰にも聞こえない声で、つぶやいた。

口の端が、少しだけ、上がった。

本部では、静かだった。

シンパイがホワイトボードの前に立っていた。
今日書いたシナリオ図解が、全部消えていた。

代わりに、一行だけ書いてあった。

〈今日は、悪くなかった〉

「ほらね!」

ダイジョブが、本部の端から端まで走った。走って、走って、また走った。

「ほらね!! ほらね!!!」

「……うるさいですよ」とシンパイが言った。

「でも「悪くなかった」って言いましたよ! ミコが!!」

「それは本人が言ったんです。わたしたちじゃない」

「そうですけど! でも! でもですよ!!」

ダイジョブは、ぴたっと止まった。

それからゆっくり、シンパイを見た。

「よかったですよね、シンパイさん」

シンパイが、ホワイトボードに背を向けた。
パイプ椅子に座った。
ギィ、と鳴いた。

「……次回に向けて、課題が山積みです」

「そうですね」

「「もう少しこうしてほしい」と言えるようにしないといけない。次回の予約のときに、担当を指名できるようにしないといけない。会計で——」

「次回は三ヶ月後ですよ」とダイジョブが言った。「ゆっくり準備できます」

「……そうですね」

「今日は、よかった」

「……そうですね」

シンパイが言った。
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。

ぐうぅ。

「帰りに何か食べて帰りたいんですが」とハラヘッタが言った。「シフォンケーキとか、どうでしょう」

「……CAFÉ NIJIMIは帰り道に通りますか」とキオクが言った。

全員が、顔を見合わせた。

「……寄っていきますか?」とダイジョブが言った。

「……」とシンパイが一瞬だけ固まった。

「……それはまた別の会議が必要な案件です」

「まあ、大丈夫ですよ、たぶん」

「たぶん×1はまだ確信値がありません」

「でも悪くないと思いますよ」

「……」

「シンパイさん?」

「……採決は、次の角を曲がってから取ります」

ネムイが、寝たまま、静かにうなずいた。

ミコはポケットのお守りを取り出した。
「家内安全」の文字。
かすれたまま、変わっていない。

(一人暮らしに、家内安全)

また、少しおかしかった。

今日のことを考えた。
電話に出た。ドアを開けた。トイレを申告した。「ありがとうございます」しか言えなかった。次の予約をしなかった。

全部できたわけじゃない。
でも、「悪くない」はあった。

ミコはお守りをしまった。
足を、一歩、前に出した。

路地の角を曲がったら、白い看板が見えるかもしれない。

今日は、どうしようか。

——まあ、とりあえず、角を曲がってから考えよう。

ミコは歩き出した。

— 了 —

After Reading

読後の余韻に、次の一編を。

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