トイレから戻ったミコは、もう一度椅子に座った。
「すみませんでした」と言ったら、「いえいえ!」とナツメさんが笑った。
カットが再開した。
さっきよりも、少しだけ、体が軽かった。
なんでだろうと思ったが、考えるのをやめた。
ナツメさんは話しかけてきた。
「お仕事は何されてるんですか?」
(うわ来た、雑談)
(何を言えばいい)
「え、と……事務系の仕事です」
「あー、お家でされてる感じですか?」
「そう、です……在宅が多くて」
「いいですよね、在宅! 満員電車乗らなくていいじゃないですか」
「……そうですね」
それだけで会話が終わった。
ナツメさんは「じゃあ楽ですね!」と言って、また黙々とカットを続けた。
(怒ってない)
(全然怒ってない)
ミコはケープの端を、また膝の上でぎゅっと握った。
*
本部では、まだシンパイが何かをホワイトボードに書いていた。
〈会話パターン別・最悪シナリオ図解(全47種)〉
「シンパイさん、もうカット終わりそうですよ」とダイジョブが言った。
「まだ仕上げがあります! 乾かしてもらう間も! 最後の会計も! 気を抜く場面は一箇所もない!」
「なんか……楽しんでますよね」とハラヘッタが言った。
「何ッ」
「シナリオ図解、すごく丁寧に描いてるなーって」
「……これは仕事です」
「でもすごく細かいし、字がきれいだし——」
「黙ってください!」
「本当に楽しいんだと思います」
「ッッ!!」
キオクが静かに言った。「ブローが始まりました」
全員がモニターを見た。
ドライヤーの音。
ブラシで形が整えられていく。
「……ちょっと待って」とシンパイが言った。
「何ですか?」
「……イメージと、違う」
全員が画面を見た。
ナツメさんがブラシで仕上げた髪型は、確かに「軽くなった」し「肩についている」が——なんか、こう、思っていた雰囲気とは少し違った。
「わかります? ちょっと横の膨らみが——」
「ブローの問題じゃないですか?」とダイジョブが言った。「帰って自分でやったら変わりますよ、たぶん」
「たぶんってなんですか」
「なんとなく」
「根拠なし!」
「でも怒るほどじゃないですよ」
「怒ってない! ただイメージと違う!」
「言えますか? 「もう少しこうしてほしい」って」
「……言えません」
全員が黙った。
「……言えません? シンパイさん」とダイジョブが繰り返した。
「言えません。ミコが言えない。それをわたしは知っている」
「……」
「そこを無理やりしゃべらせようとすることが、一番怖い。違う?」
ダイジョブが、少し口をつぐんだ。
「……そうですね」
「だから」とシンパイが言った。「これは——言えない。でも、それでいい案件かどうかの判断を、今しています」
キオクが静かに言った。「帰ってから、また伸ばせます。次回に言える言葉を準備する時間も、あります」
「……そうです」
シンパイがホワイトボードに書いた。
〈今日は、言えなくていい〉
「ネムイさんを起こしますか?」とハラヘッタが言った。
「まだです」とシンパイが言った。「あと一山あります」
*
「お待たせしました! いかがですか?」
ナツメさんが手鏡を差し出した。
鏡の中の自分。
後ろから見た、自分の髪。
(……)
思っていたより、横に広かった。
でも、軽くなっていた。
三ヶ月分の重さが、落ちていた。
「あ……」
ミコは何か言おうとした。
「もう少し、こうしてほしい」と言おうとした。
「ありがとうございます」
出てきたのは、それだけだった。
「よかったですー!」とナツメさんが笑った。
(言えなかった)
でも、怒っていない。
ただ、少し、おかしかった。
「ありがとうございます」しか言えない自分が、少しだけ、おかしかった。
*
会計のとき、受付のスタッフさんが言った。
「次のご予約はどうされますか?」
(来た)
本部では、シンパイが「最終局面ッ!!」と叫んだ。
「次の予約! するかどうか! いつにするか!! 二ヶ月後か! 三ヶ月後か!! またネットで入れたいがその旨を言えるか!!」
「ネムイさん!!」とダイジョブが叫んだ。「今です!! 起きてください!!」
端のパイプ椅子に、全員が駆け寄った。
「ネムイさんッ!!!」
ネムイが、ゆっくり目を開けた。
一度まばたきした。
ぼんやりと、全員の顔を見渡した。
それから静かに言った。
「……また三ヶ月後でいいんじゃないですか」
「「また三ヶ月後」をどうやって伝えるんですか!」
「「また三ヶ月後くらいに来ます」って言えばいいじゃないですか」
「……それだけですか」
「それだけです」
ネムイはまた目を閉じた。
「…………採決します」
シンパイが振り返った。
「「また三ヶ月後くらいに来ます」と言うことに——賛成の者」
全員の手が、上がった。
ネムイの手も、寝たまま、上がっていた。
*
「えと……また、三ヶ月後くらいに、来ます」
「ありがとうございます! ではまたネットからご予約いただければ、大丈夫ですよ」
「……よかった」
思わず声に出てしまって、ミコは口を押さえた。
「え?」とスタッフさんが言った。
「あ、いえ……ありがとうございます」
「またのご来店お待ちしております!」
ミコは頭を下げて、扉を押した。
今度は、一発で開いた。
*
外に出た。
空が、青かった。
三時間くらいいた気がしたが、一時間半だった。
ミコは歩き出した。
駅に向かう道。
ショーウィンドウが並んでいる商店街。
ふと、ウィンドウに自分の姿が映った。
ミコは、立ち止まった。
(……)
思っていたより、横に広くはなかった。
室内の鏡で見たときと、外で見るのと、光が違うのかもしれない。
軽かった。
肩が、軽かった。
三ヶ月ぶんの重さが、確かに落ちていた。
ミコは鏡を見た。
鏡の中の自分を、少し長く見た。
「……まあ、悪くないか」
誰にも聞こえない声で、つぶやいた。
口の端が、少しだけ、上がった。
*
本部では、静かだった。
シンパイがホワイトボードの前に立っていた。
今日書いたシナリオ図解が、全部消えていた。
代わりに、一行だけ書いてあった。
〈今日は、悪くなかった〉
「ほらね!」
ダイジョブが、本部の端から端まで走った。走って、走って、また走った。
「ほらね!! ほらね!!!」
「……うるさいですよ」とシンパイが言った。
「でも「悪くなかった」って言いましたよ! ミコが!!」
「それは本人が言ったんです。わたしたちじゃない」
「そうですけど! でも! でもですよ!!」
ダイジョブは、ぴたっと止まった。
それからゆっくり、シンパイを見た。
「よかったですよね、シンパイさん」
シンパイが、ホワイトボードに背を向けた。
パイプ椅子に座った。
ギィ、と鳴いた。
「……次回に向けて、課題が山積みです」
「そうですね」
「「もう少しこうしてほしい」と言えるようにしないといけない。次回の予約のときに、担当を指名できるようにしないといけない。会計で——」
「次回は三ヶ月後ですよ」とダイジョブが言った。「ゆっくり準備できます」
「……そうですね」
「今日は、よかった」
「……そうですね」
シンパイが言った。
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
ぐうぅ。
「帰りに何か食べて帰りたいんですが」とハラヘッタが言った。「シフォンケーキとか、どうでしょう」
「……CAFÉ NIJIMIは帰り道に通りますか」とキオクが言った。
全員が、顔を見合わせた。
「……寄っていきますか?」とダイジョブが言った。
「……」とシンパイが一瞬だけ固まった。
「……それはまた別の会議が必要な案件です」
「まあ、大丈夫ですよ、たぶん」
「たぶん×1はまだ確信値がありません」
「でも悪くないと思いますよ」
「……」
「シンパイさん?」
「……採決は、次の角を曲がってから取ります」
ネムイが、寝たまま、静かにうなずいた。
*
ミコはポケットのお守りを取り出した。
「家内安全」の文字。
かすれたまま、変わっていない。
(一人暮らしに、家内安全)
また、少しおかしかった。
今日のことを考えた。
電話に出た。ドアを開けた。トイレを申告した。「ありがとうございます」しか言えなかった。次の予約をしなかった。
全部できたわけじゃない。
でも、「悪くない」はあった。
ミコはお守りをしまった。
足を、一歩、前に出した。
路地の角を曲がったら、白い看板が見えるかもしれない。
今日は、どうしようか。
——まあ、とりあえず、角を曲がってから考えよう。
ミコは歩き出した。
— 了 —
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